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神戸地方裁判所 昭和49年(わ)768号 判決

主文

一  被告人丸尾良昭を懲役三年に、

被告人尾﨑龍、同安井千明、同安井義隆、同坂本逸雄をいずれも懲役二年に、

被告人杉田邦夫を懲役一年六月に、

被告人石田常夫、同尾崎文雄、同安井辰雄をいずれも懲役一年に、

被告人植村勝美、同木戸口英樹をいずれも懲役一〇月に、

被告人大垣政次を懲役八月に、

被告人坂本修一を懲役六月に処する。

二  この裁判確定の日から

被告人丸尾良昭に対し四年間、

被告人尾﨑龍、同安井千明、同安井義隆、同坂本逸雄、同杉田邦夫、同石田常夫、同尾崎文雄、同安井辰雄に対しいずれも三年間、

被告人植村勝美、同木戸口英樹、同大垣政次、同坂本修一に対しいずれも二年間、

それぞれその刑の執行を猶予する。

三  本件公訴事実中、被告人尾崎文雄が昭和四九年一一月二二日森垣壽弘ほか二名に傷害を負わせたとの点(同年一二月三一日付起訴状記載の公訴事実第二)については、同被告人は無罪。

理由

(本件の背景事情および経緯)

関係証拠によれば、本件各犯行の背景となる事情および経緯として、以下の諸事実を認めることができる。

第一  本件の背景事情

一兵庫県南但馬地方(朝来郡、養父郡)には、二二のいわゆる被差別部落(人口約六〇〇〇人)が存し、旧来から、劣悪な生活環境、結婚、就職差別などに苦しんできたが、昭和四八年七月に部落解放同盟南但馬支部連絡協議会(以下「南但支連協」という。)が結成され、右の各部落に解放同盟支部が設けられ、さらに同年一〇月南但支連協青年部が発足し、ここに同地方においても、差別に対する解放運動の基盤となる組織が整備されるに至り、青年層を中心とした解放運動が活発になつた。とくに、昭和四九年一月ころ発覚した山田久差別文書事件を契機として、右解放運動は活性化した。すなわち、同事件は、兵庫県職員山田久がその子息に送つた手紙の内容が部落差別であるとして追及された事件であるが、部落差別解消の責務を負う行政の関係者に差別意識が残存するとしてこれを糾すべく、同年一月下旬ころ、山田久差別文書糾弾斗争本部が設置された。

二右の本部は朝来郡和田山町内旧但馬銀行の建物に事務所を置き(被告人尾﨑龍、同安井千明らが専従職員であつた。)、同斗争委員会委員長に被告人丸尾良昭(解放同盟澤支部所属、のち同支部支部長)、南但支連協を構成する解放同盟二二支部の各支部長が斗争委員となつていたものであるが、そのころから、右委員会の指導の下に南但支連協青年部ないし青年行動隊(同青年部長兼青年行動隊長被告人安井義隆。なお、死亡前相被告人大垣秋敏は同副部長兼副隊長)が中心となつて、各部落における学習会はもとより、南但各町の行政関係者に対する確認会、糾弾会などいわゆる行政点検活動が盛んに行なわれるようになつた。また、行政の同和事業に関する、今一つの重要な柱は同和教育にあるとして、南但地方の小学校、中学校、高等学校の教育関係者に対する確認会、糾弾会も数多く開かれるようになつた。生野小学校(同年七月)、和田山中学校(同年五月から七月)、朝来中学校(同年七月、八月)に対する確認会がその例である。

さらに、このころから南但地方の中学校、高等学校内で、奨学生(同和奨学金を受けている学生)を中心に、部落解放研究会(以下「解放研」という。)の設置を要求する気運が高まり、朝来中学校、和田山中学校、和田山商業高等学校などいくつかの学校に解放研が設置され、解放研生徒が各学校に対する糾弾活動の一役をになつた。

三右のように、南但支連協の青年層を中心とした教育機関に対する確認会、糾弾会が盛んになるにつれてこれに反撥する人達も出てきた。また、右の解放研設置要求に対して消極的な人達もいた。後に詳しく述べるように、前者の代表は橋本哲朗であり後者は兵庫県立八鹿高校の教諭である。

(一)橋本哲朗は、学校の教師等教育機関に対する右の確認会、糾弾会(以下「確認会等」という。)は、具体的な差別事象がないかあるいはその有無が不明確であるにもかかわらず、確認会等の名の下に各校の同和教育、教育方針、教師の教育信条を解放同盟が点検、介入するものであつて許されないこと、確認会等はきわめて長時間教師の人格の尊厳を侵す方法で行なわれていることなどを理由としてこれに反撥し、自己が支部長をしていた兵庫県教職員組合(以下「兵教組」という。)朝来支部の一部組合員らとともに、確認等に教師が出席しないよう働きかけ、あるいは解放同盟の方針に批判的立場をとるとされる馬原鉄男、東上高志、北原泰作などの講師を呼んで講演会を開くなどの活動をした。

さらに、橋本は、昭和四九年六月ころ、右の北原泰作の講演会開催を機に、城崎郡日高町鶴岡の区長であつた植田友藏と接触を深め、同人が後に結成した「部落解放運動の統一と刷新をはかる日高有志連合」(以下「日高有志連」という。)の支援をえ、また、高等学校教職員組合(以下「高教組」という。)但馬支部支部長片山正敏ら八鹿高校教諭の協力や日本共産党町会議員の支援の下に、同年七月から八月にかけて、前述の生野小学校、和田山中学校、朝来中学校などで行なわれた確認会を批判する後記ビラを作成し、兵教組朝来支部組合員や朝来郡内の住民に配布した。

橋本を中心とする右一連の活動は、被告人丸尾らを中心とする南但支連協の活動を直接、間接批判するものであつたから、両者の間には次第にきびしい対立関係が生じてきた。

(二)南但地方の中学校、高等学校内における解放研の要求に対し教諭らがこれを拒否するなどして紛争が生じた例は、和田山中学校、和田山商業高等学校などに見られたが、判示の八鹿高校の紛争はこれらにつぐものであり、教諭らが解放研設置に反対した理由は、後述する、八鹿高校の教諭らのそれに見られるように、ひつきよう解放研は解放同盟の指導の下にあるから校内に解放研の設置を認めることは学校内に解放同盟の勢力の介入を許すことになる、というにある。したがつて、ここでも解放同盟との対立関係が内在している。

四被告人丸尾らは、橋本の行動とくに確認会等を批判するビラを配布するのは、悪質な差別キャンペーンであり、解放運動を妨害し、ひいては被差別部落出身者を苦しめるもので許されないと考え、同人や兵教組朝来支部に抗議する一方、ビラ配布を阻止しあるいは新聞折込の中止をせまるなど組織をあげてこれに対応したが、橋本の右の行動やその差別的体質に照らしいずれは同人を糾弾する必要があると考えるに至つていた。

五南但における解放同盟とこれを批判する勢力の対立が本件各犯行の背景となる事情であるが、そのさらに背後には、部落解放という目的は共通であるが運動方針を異にする部落解放同盟と部落解放同盟正常化全国連絡会議(正常化連。なお現在は全国部落解放運動連合会=全解連に改組)の対立ひいてはいわゆる「矢田事件」(昭和四四年)をきつかけに決定的になつたとされる部落解放同盟と日本共産党の対立がある。

第二  判示第一の事実(元津事件)の経緯

一橋本哲朗は、昭和四九年九月七日、朝来中学校の確認会を批判した「この世の生き地獄……」などと題する日高有志連発行のビラを約一万部増刷したうえ朝来郡内の新聞販売店に持ち込み、その折込み配布を依頼した。ところが、朝来町当局および部落解放同盟はこのことを察知し、右ビラの配布は部落差別を拡大助長する行為であるとして強くその中止を要求したため、右ビラの折込み配布は中止を余儀なくされた。そこで同月八日、橋本らは、自分達の手で朝来町内だけでもこれを配布しようと考え、右ビラと前夜の折込み配布が中止になつたいきさつを記載した「深夜強迫で『新聞折込』を中止させ……」などと題するビラを二枚一組とし、兵教組朝来支部有志および日高有志連関係者などを動員して同日夕方ころからその配布を始めた。同日午後八時三〇分ころ、橋本、前記植田友藏、片山正敏ら五名が橋本宅へ戻つたところ、家人から、朝来郡朝来町岩津の通称元津付近で前記ビラを配布していた兵教組朝来支部組合員能見教諭の乗用車がいわゆる解放車に進行を阻止された旨の伝言を聞き、右五名が乗用車二台に分乗して現場に向い、同日午後九時ころ、同町岩津一八三番地鴨谷千代子方先路上に放置されていた右能見の乗用車を発見した。そこで、橋本が右乗用車を運転して帰るべく、同車に乗り込んでこれを発進させようとしたところ、右鴨谷方南側辻および道路北側から来た部落解放同盟員(以下「同盟員」ということがある。)の自動車によつてその進路を塞がれて発進を阻止され、約一〇名の同盟員に取り囲まれたうえ、前記ビラを差し出すよう求められたが、橋本はこれに応じなかつた。十数分後には被告人丸尾も現場に到着して右橋本に対する糾弾の指示、人や車の整理などをし、その後次々に同盟員らが現場に参集し、約三〇ないし五〇名の同盟員が橋本の乗用車を包囲し、あるいは付近の民家の軒下や同盟員らの自動車内で仮眠、休息しながら橋本の動静を監視する状況が続いた。

二同月八日夜半過ぎころ、日本共産党所属和田山町町会議員佐藤昌之、同山東町町会議員西岡二郎、同労働組合役員尾下秀敏の三名が乗用車で現場に到着し、橋本を右佐藤の乗用車に乗り換えさせて発進しようとしたが、前同様その進行を阻まれ、同所に滞留することを余儀なくされた。一方、日本共産党所属出石町町会議員奥村忠俊、同豊岡市市会議員太垣昇、民青同盟但馬地区委員長西野清、兵高教組但馬支部専従職員上垣賢司、日本原水爆禁止協議会但馬協議会事務局長代理梅田平、日本共産党所属松田一戯は、同党但馬地区委員会などからの連絡を受け、いつたん朝来町口田路所在の橋本宅に立ち寄つた後、右六名が橋本ら救出のため三台の乗用車に分乗して現地に向い、翌九日午前六時三〇分ころ、同郡同町岩津字栗尾三番地先路上(通称元津三叉路)に到着した。

三このころ、橋本ら四名は、乗用車を置いて徒歩での帰宅を決意し、同盟員らに追尾されながらいつたん国道三一二号線に出た後旧県道に戻つてこれを北上し、同日午前七時ころ、前記元津三叉路付近で右奥村ら六名と合流し、三台の乗用車に分乗して発進しようとした。ところが、追尾してきた約二〇ないし三〇名の同盟員らが乗用車の前に立ちはだかるなどして発進を阻止したため、右一〇名は再度徒歩による帰宅を決意し、国道三一二号線を北に向うべく、一団となつて歩き始めた。その後、被告人丸尾らが同所などにおいて、前記ビラの配布などに関し橋本ら一〇名を糾弾し、いわゆる元津事件が発生した。

第三  判示第二の事実(橋本宅包囲、木下議員事件)の経緯

一前記元津事件以後、橋本哲朗らは、右事件につき被告人丸尾らを告訴するなどし、同人らと部落解放同盟との対立関係はますますきびしさを加えてきたところ、昭和四九年一〇月初めころ、部落解放同盟澤支部青年部有志の間で、右橋本に対する糾弾が具体化されるようになり、当時澤支部支部長であつた被告人丸尾に相談して協力を求めたうえ、同月一二日、一三日ころ、朝来町内の青年集会所に被告人尾﨑龍、黒川全宏、大垣秋敏(死亡前相被告人)ら澤支部青年部員らが集まり、具体的な糾弾方法などについて検討した。その結果、糾弾斗争の期間は同月二〇日から二六日までの一週間とし、毎日午後七時から八時までの間、少なくとも約五〇名の同盟員らを動員して兵庫県朝来郡朝来町口田路二五〇番地の一所在の橋本宅前をデモ行進し、いわゆる解放車のマイクを用いて道路から糾弾するなどの方針を定め、同月一四日、被告人尾﨑龍が申請人となつてその旨の道路使用許可申請書を兵庫県和田山警察署長に提出(同月一九日許可)した。

二同月一五日ころおよび一八日ころの二回にわたり、澤福祉会館で行われた澤支部主催の学習会の席で、被告人尾﨑龍は、出席した約五〇名の同盟員に対し、橋本糾弾斗争への参加と協力を求めるとともに、青年部員らは他の支部員らにも応援の依頼をした。同月一六日ころ、青年部員らは、橋本糾弾計画について記載したビラやポスターを朝来町内に配布する一方、同月一七日ころ、被告人尾﨑龍および朝来中学校教頭太幸史郎が橋本方に赴いて右ビラを手渡し、糾弾を通告するなどした。

三同月二〇日夕方ころ、澤支部青年部員らが、橋本方から東隣りの神橋敏雄方および田圃を隔てて東方約数十メートルの地点にある由利若神社西側空地に澤支部のキャンプ用テントを二張設置し、また朝来町役場職員を介し、電気店によつて、右テント付近に数個の電球、橋本宅東側電柱に三〇〇ワットおよび五〇〇ワットの屋外作業灯各一個が設置された。

四木下元二は、日本共産党に所属する兵庫県選出の衆議院議員(当時、以下同じ)であつたが、昭和四九年一〇月二一日夜、同党兵庫県委員会の役員から橋本宅包囲事件の発生を知らされるとともに橋本宅へ行つて実情を調査することを依頼され、同月二二日但馬地方に赴き、同党所属の兵庫県会議員前田英雄、前記佐藤昌之および西岡二郎らと面会して、同人らから橋本方の状況等について簡単な説明を受け、同人らおよび後援者である谷岡、森田、竹田を伴つて橋本宅へ向つた。右七名は、二台の乗用車に分乗し、いつたん橋本宅前路上を通過してその状況を見たあと、同日午後二時ころ和田山警察署に立ち寄り、身辺警備を要請し、パトロールカー一台を伴つて午後四時五分ころ、橋本宅に至つた。木下らは、同所で約五〇分間橋本らから事情の説明を受けた後、同人宅から退出するため、同人宅西側空地に駐車させていた二台の乗用車に分乗した。

第四  判示第三ないし第六の事実(生野駅・南真弓公民館事件、新井駅事件、青倉駅事件および大藪公会堂事件)の経緯

前記橋本糾弾斗争の間、橋本哲朗を支援し、右糾弾が不法、不当であることを訴えるため、多数の民青同盟員、学生、労働組合員などが南但に集結し、橋本宅付近で解放同盟員と対峙する一方班を分つて国鉄播但線生野駅、新井駅、青倉駅などで、付近住民や通行人に右糾弾を非難するビラ(朝来郡民報、兵庫民報など)を配布した。これを聞きつけた橋本斗争に参加していた解放同盟員などが右各駅にかけつけ、ビラの配布を阻止しようとし、あるいはこれに抗議する過程で生じたのが判示第三ないし第五の犯行である。

判示第六の犯行は、判示吉井誠一(当時日本共産党養父支部長)が朝来郡民報を配布し、“差別キャンペーン”を行なつている旨の通報を受けた被告人坂本修一(当時解放同盟藪崎支部書記長)が、右誠一の乗用車を追尾し、自宅前で下車した誠一に抗議した際生じたもの(判示第六の一)および引続き判示大藪公会堂において同被告人、被告人坂本逸雄(当時同支部長)ら多数の解放同盟員が同人を糾弾した際同人および同人の父吉井誠に対し加えられたもの(同二)である。

第五  判示第七の事実(八鹿高校事件)の経緯

一昭和四九年二月の八鹿高校卒業式において生徒二名が解放研の設置を訴えたのを端緒に、同校の被差別部落出身の生徒を中心として、解放研の設置を求める動きが起り、同年五月には学校側に対し正式な設置申請が出され、学校側と具体的な話し合いがなされた。同校同和教育室長であつた高本清筰をはじめとする同校教諭らは、概して、同校にはすでに同種の同好会として部落問題研究会があること、解放研は解放同盟の運動方針に基づいて作られるもので解放研を校内に設けることによりこれを足掛りにして外部の運動が校内に持ちこまれ公教育に対する介入のおそれがあるなどとして、解放研設置に消極的であつた。

同校の珍坂校長は、同年六月六日被告人丸尾と会い同人から解放研の設置を要請され、さらに同月二二、二三日に行なわれた高校生の同和研修会(部落解放に立ち上る高校生の宿泊研修会)では同校の小田垣教頭が、同月末に行われた右の継続研修会では珍坂校長が、いずれも激しい説得を受けたうえ参会者から解放研の設置を求められ、結局七月末までにこれを設置する旨の約束をすることとなつた。

二それ以後、右のような経過をふまえかつ県教育委員会の指導に沿つて解放研の設置を認めようとする校長および教頭ら同校管理職と、あくまで設置に反対しかつ前記宿泊研修会はもとより一切の糾弾会への不参加を標榜する同校一般教諭らの対立が激化し、教諭らの校長室座りこみの事態にまで発展したが、同年七月三〇日珍坂校長はついに解放研の設置を承認し、顧問に小田垣教頭をあて、同校本館二階に部室を提供した。

ここに同校解放研は正式に発足し、以後解放研は定例の集会、文化祭などの活動を続けていつた。

ところで、校長らの右の措置に反撥する同校教諭らは、これに抗議するとともにあくまで解放研を認めていないという態度をくずさなかつた。この事態を憂慮した同校育友会は、同年八月一三日校長ら管理職および一般教諭双方に対し事態の正常化を要請し、同年一〇月一八日には県教育委員会に対し同年一一月一八日までに正常化をはかるよう要請した。これを受けた同委員会主事らは、同年一〇月同校に来て同和教育室の教諭らと話し合うなど解決へのあつせんはなされたものの、事態は好転しないまま同年一一月を迎えることになつた。

三同年一一月一二日解放研の生徒は、高本清筰ら同和教育室の教諭と同校の同和教育のあり方などについて話し合いをすることを申し入れ、職員会議はこれを拒否したが、結局同月一六日右高本ほか二名の教諭と解放研の生徒らが同校第三職員室で話し合うことになつたものの十分な話し合いはできないままで終つてしまつた。

解放研の生徒達は、同校教諭らに話し合いの意思はないものと考えて不満の情を高め、同日被告人丸尾、同安井義隆らに右の事情を説明し、解放同盟の支援を要請する一方、同月一八日から同校職員室前廊下で座りこむことを決めた。

四同月一八日解放研の生徒二一名は「三項目要求」(解放研と先生との話し合いをもつこと、八鹿高校の同和教育は部落の解放とすべての生徒の幸せにつながつていないことを認めることなど)を掲げて予定どおり座りこみを開始した。

右解放研を支援するため、同日夜には八鹿町民ホールにおいて解放同盟南但支部をはじめ各町職員組合、育友会など多数の団体をもつて「八鹿高校教育正常化共斗会議」が組織され、被告人丸尾が議長となり、本部を右町民ホール(現地斗争本部は同校校長室隣の応接室)に設置した。

被告人丸尾の発案により同月二〇日から毎夜七時から九時ころにかけて同共斗会議主催の抗議デモおよび集会(右町民ホールから八鹿高校まで集団行進をし、同校本館前広場において集会するもの。以下、単に「抗議集会」という。)が開催され、多数の解放同盟員をはじめとする共斗会議構成員がこれに参加した。また、南但支連協青年部員らを中心に多数のビラ(斗争ニュース)が前記山田久差別文書糾弾斗争本部事務所で作成され、街頭で配布された。これらのビラは解放研をめぐる八鹿高校教諭の前記態度を非難、攻撃する内容のものであつた。

なお、同月二〇日右共斗会議は名称を「八鹿高校差別教育糾弾斗争共斗会議」と変更している。

五一方同校教諭らも、事態の切迫を感じとり、右一連の動きに対応し、兵庫県高等学校職員組合(兵高教組)の支援を受けつつ、具体的な行動をとることとなつた。すなわち、同月一七日には神鍋で職員集会を開いて今後の対応策を練り、同月一八日からは集団で登校、下校し、同月二〇日からは城崎町の旅館に集団で宿泊するなどして結束を固めるとともに詳細な連絡、協議ができる態勢をととのえた。

また、前記の「三項目要求」はこれを拒否し、県教育委員会や育友会からの話し合いの要求に対しては、「本年五月以前の状態に復すること」などを条件としてこれに応ずるという回答をしたにとどまつた。

六座りこみをしていた解放研生徒は、右の状態を不満として、同月二一日午後四時からハンガーストライキに入り、同夜は学校に泊りこんだ。

被告人丸尾は、右の事態に対処するため、同月二一日夜、抗議集会終了後に、解放同盟南但各支部の支部長、被告人安井義隆らを前記現地斗争本部に呼び集め、ハンガーストライキに入つた生徒の健康状態の点からして連休の前日である翌二二日中にはどうしても同校教諭らと解放研生徒が話し合う機会をつかみたい旨を話し、そのため翌二二日午前一〇時に町民ホールに解放同盟員五〇〇人程度を集めてほしいと動員を指示した。

七被告人丸尾を除くその余の関係被告人の、八鹿高校における解放研をめぐる前述の紛争(以下「本件紛争」という。)への関与および本件に加功することとなつた経緯は、大要以下のとおりである。

(一)南但支連協の幹部である被告人坂本逸雄(同人の次女真由美が八鹿高校一年生に在籍し解放研に所属していた関係もある。)同安井義隆および前記山田久差別文書糾弾斗争本部の専従職員であつた被告人尾﨑龍、同安井千明らは、かねてから本件紛争を知つていたが、その具体的な状況を知り、支援活動(前記のとおりのビラの作成、配布、抗議集会への参加など)に入つたのは、一一月一六日以降のことである。被告人石田常夫、同尾崎文雄、同安井辰雄は本件の二日前ないし当日に本件紛争を知り、被告人植村勝美は事情を知らないまま本件に加つたようである。

なお、被告人坂本逸雄は、次女真由美が座りこみを始めた同月一八日以降ほぼ連日八鹿高校へ出かけ職員室で教諭らの態度に抗議していた。また、前記共斗会議結成の席にも加わり、同共斗会議主催の抗議集会にも参加していた。被告人安井義隆は、抗議集会の司会や経過報告をする役をつとめたほか座りこんでいる解放研生徒を激励に行つた。

(二)右二名は、前述のとおり、被告人丸尾が同月二一日夜現地斗争本部に各支部長などを集めた際同席し、翌二二日午前一〇時からの集会を知り、被告人安井義隆は、その後山田久差別文書糾弾斗争本部事務所でビラの作成をしていた被告人石田ら青年部員に右の集会を伝えた。被告人尾﨑龍、大垣秋敏(死亡前相被告人)も同夜同所で右の集会の連絡を受けている。その余の被告人は当日朝右の集会を知つた。

この集会に臨む被告人らの心情は、被告人丸尾と同様、ハンガーストライキをしている解放研生徒の健康状態からして二二日中にはどうしても決着をつけたいという点ではほぼ共通していたが、中にはそのために同校教諭らを徹底糾弾する必要があると考えていた者も存した。

八同年一一月二二日午前九時ころ、集団登校してきた同校教諭ら六〇余名は、直ちに職員会議を開き、今日在校しておれば、解放同盟員ら前記共斗会議構成員から監禁されて激しい糾弾を受けるおそれがあると考え、高本清筰教諭の提案に基づき、当日の授業を中止し、年次休暇をとつて集団で下校する旨申し合せ、右申し合せにしたがい、担任クラスで生徒にその旨を伝えたうえ、同校図書館に集合し、午前九時四〇分ないし四五分ころ同館を出て、三列縦隊になつてスクラムを組み、集団で下校しはじめた。

被告人丸尾は、同校校長室で右集団下校に気づいて同室を飛び出し、同校正門付近で列の前に両手を広げて立ちはだかり、さらに「お前だけは逃さんぞ」と言いながら、被害者高本清筰の首に手をまわすなどして、被告人尾﨑龍ともども、列の進行を止めようとしたが果せず、付近にいた者に町民ホールに集つている解放同盟員の応援を依頼しつつ、列とともに進行した。

右の集団下校の列は、同校正門付近で同所にかけつけた珍坂校長や県教育委員会、育友会関係者らの制止にもあつたが、これを振り切つて進み、町道栄町線(新町商店街)に出て国鉄八鹿駅方面に向つた。途中馬橋付近で数人の教諭が列からはなれたが、他は、若干の阻止を排しつつ列を進め、同日午前一〇時ころ判示の立脇履物店前に至つた。

一方、そのころ、八鹿町民ホールには、前記のような経緯で、前記共斗会議の構成員である南但各支部の解放同盟員二〇〇ないし三〇〇名が参集し、被告人安井義隆が開会準備のため参加者の整理をしかけていた。そこへ同校教諭らが集団下校しつつあるとの連絡が入り、同被告人、被告人坂本逸雄、同石田、同安井千明など右集会の参加者は、これを阻止すべく、いつせいに徒歩ないし車で同教諭らの帰路に向つて移動した(なお、死亡前相被告人大垣秋敏ら一部の者は国鉄八鹿駅へ向つた。)。また、八鹿高校へ行つていた被告人尾崎文雄、同安井辰雄なども右集団下校を知り、教諭らの後を追つた。

立脇履物店前に教諭らの集団下校の列が差しかかつた際、かけつけた解放同盟員らは、まず二台の車で列の前面を阻止して進路をふさぎ、徐々に増えた解放同盟員らは教諭らをとり囲んだ。片山正敏ら別表(四)、(七)記載の被害者五〇名を含む同校教諭ら約六〇名(何人かは、その場からはなれていた)は立脇履物店に押しこめられる形で圧迫され、いつせいにその場にスクラムを組んで座りこんだ。

(罪となるべき事実)

第一  (元津事件)

被告人丸尾良昭、同尾﨑龍、同安井義隆および同安井千明は、ほか多数の部落解放同盟員らと共謀のうえ、昭和四九年九月九日午前七時過ぎころ、兵庫県朝来郡朝来町岩津字栗尾三番地先路上(通称元津三叉路)付近において、前記橋本哲朗(当時三九年)など別表(一)記載の一〇名に対し、同人らの前に立ち塞がるなどしてその進行を阻止したうえ多数でスクラムを組んで同人らを輪状に取り囲み、ついで同所および同所東南側空地に設置されたテント内で同人らを取り囲み、あるいは多数でテントを包囲するなどし、同日午後五時一五分ころまでの間約一〇時間にわたり、こもごも「差別者、糾弾する。」「ビラ撒いたやろ。」「一日で済む思つたら大間違いだ。一週間でも一〇日でもやつてやる。」などと怒号するなどし、もつて、多衆の包囲と威圧により同人らの脱出を著しく困難ならしめて同人らを不法に監禁し、

第二  (橋本宅・木下議員包囲事件)

一被告人丸尾良昭、同尾﨑龍および同安井義隆は、ほか多数の部落解放同盟員らと共謀のうえ、同年一〇月二二日午後五時三〇分ころから同月二六日午前一一時四五分ころまでの間、兵庫県朝来郡朝来町口田路二五〇番地の一所在の橋本哲朗方居宅周辺において、多数の部落解放同盟員らが参集して右橋本方居宅前などに滞留し、あるいはこれを取り囲み、同屋内の同人に対し、ハンドマイクおよび肉声で「橋本糾弾。」「橋本出てこい。」「お前は完全に包囲されている。今すぐ出てきなさい。わしらを怒らせたらこわいぞ。」「子供が可愛くないのか。」「最後の最後まで斗うぞ。」などとこもごも怒号するなどし、この間合計約九一時間にわたり、多衆の包囲と監視および威圧により、右橋本をして同人方からの自由な出入りを著しく困難ならしめ、もつて同人を不法に監禁し、

二被告人丸尾良昭、同尾﨑龍および同安井千明は、尾﨑明義ほか多数の部落解放同盟員らと共謀のうえ、同月二二日午後五時ころ、前記橋本方西側出入口付近において、同人方を訪れた前記木下元二、前田英雄および西岡二郎らが、右橋本方から普通乗用車二台に分乗して退出しようとするのを認めるや、右尾﨑明義において右自動車後方の溝蓋の上に寝転び、被告人丸尾良昭において「お前達が車をバックさせたら殺人者として法廷に出んならんことは明らかだ。お前達の車がちょっとでも動いてみろ、殺人者だ。」などと怒号し、同車の進路上に駐車させたマイクロバス(いわゆる解放車)の周囲を被告人尾﨑龍、同安井千明ら数十名の同盟員らがスクラムを組んで取り囲み、警察官による右マイクロバスの移動を妨げるなどして、右木下らが乗車している普通乗用自動車の発進を不能ならしめ、同日午後五時三〇分ころ、同人らをして同車から下車し右橋本方に引きこもるのを余儀なくさせたうえ、引き続き同人方の周囲を多数の同盟員らで取り囲み、被告人丸尾良昭においてマイクで「差別者集団日本共産党宮本一派よ、お前達は階級の裏切り者、階級の敵である。」「橋本の自己批判を止めるために共産党がここに集つた。」などと怒号し、同盟員らにおいて「日本共産党糾弾。」「部落解放同盟は斗うぞ。」「最後の最後まで斗うぞ。」などとシュプレヒコールを繰り返すなどし、警察官が右木下らを退出させる態勢をととのえた同日午後一〇時ころまでの間約四時間三〇分にわたり、多衆の包囲と威圧により同人らが右橋本方から退出することを著しく困難ならしめ、もつて右木下、前田および西岡を不法に監禁し、

第三  (生野駅・南真弓公民館事件)

被告人杉田邦夫、同木戸口英樹は、ほか十数名の部落解放同盟員らと共謀のうえ、同年一〇月二五日午前一〇時ころ、兵庫県朝来郡生野町口銀谷所在の日本国有鉄道播但線生野駅下りホームにおいて、スクラムを組んで同所に座りこんでいた別表(二)記載の久後生歩など二〇名を取り囲んだうえ、同人など一二名(別表番号5、14ないし20を除いたその余の者)に対し、髪の毛を引張り、腕を殴打しあるいは背中をけるなど同表記載(「暴行の態様―生野駅ホーム」欄)の暴行を加えるとともに、同人など二〇名に対し、その腕を引張るなどして右スクラムから引き離した後、両腕をかかえるなどして付近に停めてあつたマイクロバスまで連行して、これに押しこめ、同所から、約一三〇〇メートル離れた同町真弓二九六の二所在の南真弓公民館に連れこみ、もつて右二〇名を不法に逮捕し、同日午前一〇時すぎころから午後二時三〇分ころまでの間約四時間三〇分にわたり、同所において同人らを取り囲みあるいはその前面に立ちはだかり、さらには、同人らがそのころ部落解放同盟を非難する文言などを記載したビラを配布していたのは不都合であるとして、こもごも「なんでビラを配つたか」「リーダーは誰だ」などと怒号するなどし、もつて多衆の包囲と威圧により同人らが同所から脱出するのを著しく困難ならしめて同人らを不法に監禁し、さらに、右監禁の際、久後生歩など一三名(別表番号14ないし20を除いたその余の者)に対し、顔面を殴打し、背中をけるなど同表記載(「暴行の態様―南真弓公民館」欄)の暴行を加え、右一連の暴行により右一三名(ただし、被告人木戸口については、同表番号6、13をさらに除いた一一名)に対し、同表「受傷の状況」欄記載のとおり加療約二週間ないし五日間を要する各傷害を負わせ、

第四  (新井駅事件)

被告人大垣政次は、ほか数名の部落解放同盟員らと共謀のうえ、同年一〇月二六日午前八時ころ、同郡朝来町新井所在の日木国有鉄道播但線新井駅前付近において、河合博(当時三五年)に対し、その顔面を手拳で殴打しあるいはその胸部、大腿部をけるなどの暴行を加え、神野貞雄(当時三三年)に対し、その顔面を手拳で殴打しあるいはその頭部を角材で殴打するなどの暴行を加え、よつて右河合に加療約三週間を要する鼻骨骨折などの傷害を、右神野に加療約一週間を要する頭部裂創などの傷害をそれぞれ負わせ、

第五  (青倉駅前事件)

被告人尾崎文雄は、ほか数名の部落解放同盟員らと共謀のうえ、前同日午前八時過ぎころ、同郡同町物部所在の日本国有鉄道播但線青倉駅前付近において、撰梅忠雄(当時三五年)など別表(三)記載の四名に対し、手拳で顔面を殴打しあるいは足で大腿部をけるなどの暴行を加え、よつて、右撰梅ら四名に対し同表記載のとおり加療約三週間ないし一週間を要する傷害をそれぞれ負わせ、

第六  (大藪公会堂事件)

一被告人坂本修一は、ほか数名の部落解放同盟員らと共謀のうえ、同年同月二七日午後零時過ぎころ、同県養父郡養父町大藪七四八番地吉井誠一方前路上付近において、吉井誠一(当時二五年)に対し、こもごもその顔面を手拳で殴打し、あるいは腹部、脚部を足げりするなどし、もつて数人共同して暴行を加え、

二被告人坂本逸雄および同坂本修一は、ほか十数名の部落解放同盟員らと共謀のうえ、同日午後一時三〇分ころから同二時ころにかけて、同郡同町大藪三八七番地所在の大藪公会堂において、前記吉井誠一および同人の父吉井誠(当時四七年)に対し、こもごも手拳あるいは平手で顔面、胸部などを殴打し、あるいは腰部、脚部を足げりするなどし、もつて数人共同して暴行を加え、

第七  (八鹿高校事件)

一被告人丸尾良昭、同石田常夫、同尾﨑龍、同尾崎文雄、同安井千明、同安井辰雄、同安井義隆、同坂本逸雄は、前記共斗会議構成員多数と共謀のうえ、同年一一月二二日午前一〇時ころ、兵庫県養父郡八鹿町八鹿一〇五七番地立脇履物店前および付近路上など(以下「第一現場」という。)において、前記片山正敏(当時四四年)など別表(四)記載の四七名の兵庫県立八鹿高等学校教諭らに対し、その頭部、顔面を殴打し、あるいはその腕、足、背部をけるなど同表記載(「暴行の態様―第一現場」欄)の暴行を加え、前記立脇履物店前路上にスクラムを組んで座りこんでいた同人らをスクラムから引き離したうえ、別表(五)記載(「逮捕の状況」欄)のとおりその手足を持つて引きずるなどした後トラックまたはマイクロバスに乗せ、あるいは両腕をとつて徒歩で連行するなどし、そのころから同日午前一〇時三〇分ころにかけて同所より約三〇〇メートル離れた同町九鹿八五番地所在の同校第二体育館に連れこみ、もつて同人らを不法に逮捕し、引き続き同日午後一一時ころまでの間、同表記載(「監禁時間」欄)のとおり、一人につき約三〇分ないし一二時間三〇分にわたり、同人らを同表記載(「監禁場所」欄)のとおり、右第二体育館、同校本館二階の会議室(以下「会議室」という。)、部落解放研究会部室(以下「解放研部室」という。)、休養室または第一体育館など同校内に押しこめ、右共斗会議構成員多数で包囲、看視するなどして同人らが同校から脱出するのを著しく困難ならしめて不法に監禁し、その間右第二体育館、会議室または解放研部室(以下「第二現場」という。)において、右片山など四一名(別表(四)番号32、42、44ないし47の被害者を除いたその余の者)に対し、髪の毛を引張り、頭部、顔面を殴打し、腹部、背部をけり、あるいは冷水をあびせるなど同表記載(「暴行の態様―第二現場」欄)の暴行を加えて同人らを畏怖、困惑させ、右片山ら二九名(別表(五)「自己批判書の作成」欄記載の者)に自己批判書の作成を要求し、よつて同人らをしてそれぞれその意思に反して、「解放研生徒と話し合わなかつたことを反省する。」「過去の同和教育は誤つていた。」「今後は解放研の生徒に学びつつ同和教育を進めていく。」などという趣旨を記載した自己批判書または確認書(以下、まとめて「自己批判書」という。)を作成させてこれに署名指印などをさせ、もつて同人らに義務なきことを行わしめるとともに、前記一連の暴行により右片山など四三名(別表(四)番号20ないし23の被害者を除いたその余の者。ただし、被告人尾崎文雄については、さらに番号14ないし17、19、30、32、42、44ないし47の被害者を除いた三一名)に対し、同表記載(「受傷の状況」欄)のとおり、加療約二か月間ないし一週間を要する各傷害を負わせ、

二被告人植村勝美は、前同日午前一一時三〇分ころ、前記第二体育館に赴き、前記片山など同校教諭らが同所に監禁されて暴行を加えられている状況を認識しながらこれに加功し、丸尾良昭ほか前記一の被告人および前記共斗会議構成員多数と共謀のうえ、別表(五)記載のとおり片山正敏など四三名(同表番号44ないし47の被害者を除いたその余の者)を一人につき約二時間三〇分ないし一二時間三〇分にわたり、前記一のとおり監禁し、右片山など四一名に対し、前記一のとおりの暴行(別表(四)「暴行の態様―第二現場」欄記載)を加えたうえ、前記一のとおり、右片山ら二九名に対し義務なきことを行わしめるとともに、右暴行により右片山など別表(六)記載の三〇名に対し、同表記載のとおり、加療約二か月間以内ないし一週間を要する各傷害を負わせ、

三被告人丸尾良昭、同石田常夫、同尾﨑龍、同安井千明、同安井辰雄、同安井義隆、同坂本逸雄は、前記共斗会議構成員多数と共謀のうえ、前同日午前一〇時ころ、前記立脇履物店前路上において、前同様にスクラムを組んで座りこんでいた同校教諭森垣壽弘、同中尾滋男および同校農業実習員藤原利一に対し、その頭部、顔面、胸部をけるなど別表(七)記載の暴行を加え、よつて同人らに加療約四週間ないし一〇日間を要する同表記載の各傷害を負わせ、

たものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(当裁判所の判断)

第一  事実上の争点に対する判断

一  判示第一の事実(元津事件)について

(一)弁護人は、被告人丸尾らの判示第一の所為は被害者らをして脱出を著しく困難ならしめ、あるいは不可能ならしめる程度のものではなく、監禁にあたらないと主張する。そこで当日の状況につき検討するのに、関係各証拠によれば次の事実を認めることができる。

1糾弾の状況など

(1) 昭和四九年九月九日午前七時過ぎころ、前示のとおり橋本ら一〇名が、元津三叉路付近空地南側に駐車した乗内車内から降り、一団となつて北方へ向け歩き始めたところ、被告人丸尾が、「糾弾会を組織する。この場において差別者を糾弾しなさい。」などと指示し、橋本ら一人につき二ないし三名の同盟員がその前に立ちはだかるなどし、押しあいを繰り返しながら前記空地北側路上付近でこう着状態になり、同所で約二〇ないし三〇名の同盟員らがスクラムを組んで橋本ら一〇名を輪状に取り囲み、同人らに対し口々に「日共差別者集団。」「差別ビラを撒くな。」「差別者帰さんぞ。」などと罵声を浴びせるなどした。

(2) 午前八時三〇分ころ、同所で、橋本らおよび同盟員らの上に雨よけのため農作業用ビニールシートが被せられついで午前九時ころ、南側を入口として東、西、北方を塞いだテントが同人らを囲むようにして設置された。右テント内では、橋本ら一〇名は分断され、一人に対し数名の同盟員が入れ替りながら取り囲み、肉声またはハンドマイクを耳元にあてて同人らに対し、「お前らどこから来た。」「今日は帰さへんぞ。」「一日で済む思つたら大間違いだ。一週間でも一〇日でもやつてやる。」などと口々に怒号し、あるいは手拳を振り上げるなどの気勢を示した。この間にも同盟員らは続々参集し、テント内に入りきれない同盟員らは、テント南側出入口付近および同所南側空地に設置したもう一つのテント内で待機した。

(3) 昼前ころ、兵庫県和田山警察署署長上田勝三が、同盟員らに対し、テントを道路上から撤去するよう要求したのに対し、被告人丸尾は、部落解放同盟各支部支部長らと相談のうて、澤福祉会館に場所を変えて糾弾を続行することを提案し、同署長にその旨の伝達を依頼した。その間同盟員らは右テントから一時退去して周辺で待機していたが、橋本らが右提案を拒否したため、被告人丸尾は糾弾の再開を指示し、前同様の糾弾が続けられた。

(4) 昼ころ、日本共産党但馬地区委員会中尾某から弁当が届けられ、被告人丸尾が約二〇分間の休憩を指示し、この間同盟員らはテント内から出てその周辺で食事をした。このころには約一〇〇名の同盟員らが参集し、テント周辺で待機していた。

(5) 午後一時過ぎころ、被告人丸尾は、各支部長らと相談のうえ、テントを山側(東南側)空地に移動させるよう指示し、約四〇ないし五〇名の同盟員らがテント内に入つて橋本らを一団にして取り囲み、そのまま同人らを押しやるようにして前記空地にテントごと移動させたうえ、同所で、橋本らを一人ずつ分断させ、一人に対し数名の同盟員らが取り囲み、順次入れ替りながら前同様の糾弾を再開した。午後二時ころ、現場には約三〇台の自動車と約二〇〇名の同盟員らが集まつていたが、被告人丸尾は、同盟員らの自動車をテントの前に一列ないし二列に並べさせた。

(6) 午後三時前ころ、被告人丸尾の指示により、同盟員らは、機動隊の導入に備え前示のとおり並べた自動車の前にスクラムを組んでピケを張り、さらにテントの周囲をスクラムを組んで包囲し、テント内では主として女子および中学生の同盟員らが中心となつて前同様の糾弾を続けた。このころ、橋本は疲労のためその場に倒れ、テント内東側にダンボール紙を敷いてその上に寝かされ、保健婦の診察を受けた。その後は、テント内にパイプ椅子が持ち込まれ、橋本らはこれに座らされた。

午後五時ころ、機動隊がピケの排除を開始し、午後五時一五分ころ、橋本らは機動隊員により救出された。

2被告人らの行動

(1) 被告人丸尾良昭

午前七時過ぎころ、同盟員らに糾弾の開始を指示し、澤支部書記長西田政夫を介し同盟員らの応援を求め、その場に居合わせた朝来町職員にテントの手配を依頼するなどした。その後犯行終了時まで現場にいて、その都度糾弾の中止、再開を指示し、あるいはテントの移動、ピケットの配置を指示するなど、終始指揮者としての役割を務めた。この間何度かテント内に入つて糾弾の状況を見分し、パイプ椅子に座つている橋本の足をふむなどした。

(2) 被告人尾﨑龍

午前七時ころ現場に到着し、橋本らを取り囲むスクラムに加わり、橋本に対し、「こそこそビラ配りをして恥しいとは思わんのか。」などと怒鳴りつけた。テントが設置された後はたびたびテント内に出入りし、他の解放同盟員ともども被害者西岡、奥村を取り囲み、同人らの耳元で怒号するなどし、終始現場にいた。午後五時ころ、テントのまわりで他の同盟員多数とスクラムを組み、機動隊員らによる救出を妨害しようとした。

(3) 被告人安井義隆

午前七時ころ、糾弾に参加し、主として午前中はテントに出入りして他の解放同盟員ともども被害者西野、松田を取り囲み、同人らの耳元で怒号するなどした。昼ころから約二時間現場を離れ、現場に戻つてからはいつたんテントに入つて中の様子を見た後、宣伝カーの上に乗つてアジ演説をし、あるいは「機動隊帰れ。」などとシュプレヒコールの音頭をとり、同盟員らのピケを指揮するなどした。

(4) 被告人安井千明

犯行当初から現場にいて橋本らを取り囲み、テント設置後は頻繁にテントに出入りし、他の解放同盟員ともども被害者西野、上垣、奥村らを取り囲み、同人らに対し手拳を面前に突きつけるなどの気勢を示し、あるいはハンドマイクを耳元に近づけてどなり、被害者佐藤に対し「議員に出られんようにしてやる。」「商売もできんようにしてやる。」などと怒号するなどした。テント外では、宣伝カーに上がつてアジ演説するなどし、犯行終了時まで終始現場にいた。

(二)以上の事実からすれば、橋本らが同所から脱出することが著しく困難な状態にあつたことは明らかであり、弁護人の前記主張は採用できない。

すなわち、まず、午前七時過ぎころ、同盟員らが橋本ら一〇名と対峙した段階での状況について検討するのに、この段階においても、部落解放同盟側は少なくとも被害者側にほぼ倍する人数を有し、被害者一人に対し同盟員ら二、三名がその前に立ちはだかり、あるいはスクラムを組んで被害者らを輪状に取り囲み、肩で押すなどの態様で同人らの進行を妨害し、ほとんど一方的に大声で怒号するなどしていたことが認められるうえ、被害者らと同盟員らの年令比(同盟員らは大部分が二〇歳代前半の青年らが中心であつた)や被害者橋本らの疲労度からすれば、この段階においても被害者らが同盟員らの妨害を突破して同所から移動することは著しく困難であつたと認めるのが相当である。さらに午前九時ころには、前示のとおり同所に橋本らを囲む形でテントが設置されたのであるが、その設置の意図はともかく、これによつて同人らが外部から遮蔽された状態になつたことは間違いなく、かつ、次第に同盟員らの数が増え、遅くとも昼ころには約一〇〇名、午後二時ころには約二〇〇名の同盟員らがテントの周囲に参集し、順次テント内に入つて被害者らを取り囲み、かつ前記のとおり怒号するなどして威圧を加えていた状況からすれば、同人らにおいて、ますます同所からの脱出が困難になつていたことは明らかである。

たまたま休憩時等に同盟員らがテント外に出て行つた状態においても、テントの周囲にはなお多数の同盟員らが待機している状況には変わりはないのであるから、その脱出が困難であることは同様である。またこの間、小用に際しても、複数の同盟員が付き添つて監視していたことは、被害者らが一致して供述しているところであり、このことからしても、被害者らの行動の自由が著しく制約されていた状況を窺うことができる。警察署長がテント内に出入りしていた事実、被害者らは仲間の差入れた弁当などを食べた事実など弁護人主張の諸事情を考慮しても、右認定は左右されない。

(三)なお、被告人丸尾らはいずれも、被害者らをその場に留めて糾弾する意図をもつて、前記状況を十分認識しながら、それぞれ前記のとおりの態様で判示第一の犯行に加功していたことが明らかであるから、監禁の認識に欠けるところはなく、また、実行ないし共謀共同正犯としての刑事責任も十分認めることができる。

二  判示第二の事実(橋本宅包囲・木下議員事件)について

(一)弁護人は、被告人丸尾らの判示第二の一および同二の所為はいずれも監禁罪の構成要件に該当せず、またその故意もなく、さらに被告人丸尾らに共謀はなかつたのであるから無罪である旨主張する。そこで右の各点について検討するのに、関係各証拠によれば次の各事実を認めることができる。

1糾弾の状況など

(1) 一〇月二〇日

(イ) 午後六時過ぎころから、橋本哲朗宅から約一〇〇メートル東方にある公民館前広場に、南但支連協各支部の同盟員、朝来町職員ほか支援者らが集合し、午後六時五〇分ころには、約三五〇名が結集した。六時四五分ころから、同所において集会が開かれ、続いて橋本宅に向けてシュプレヒコールをしながらデモ行進し、七時三〇分ころ、同人宅前付近において、被告人丸尾が「橋本出てこい。お前はけだものか。我々の糾弾に応じてみろ。」などと演説し、同被告人、被告人尾﨑龍および同安井義隆らの指揮により、同盟員らが「橋本糾弾。」「橋本出てこい。」などのシュプレヒコール、ジグザグデモなどを繰り返した後、八時ころ公民館に引き上げ、解散した。

(ロ) 右解散後、被告人丸尾の呼びかけにより、公民館で代表者会議が開かれたがこれも間もなく終了し、その後は、被告人尾﨑龍、大垣秋敏および黒川全宏の三名が由利若神社西側空地に設置されたテント内で宿泊した。

(2) 一〇月二一日

(イ) 午前中約一〇名前後の同盟員らが交替でテント付近で待機したが、その間、同所にはさらにキャンプ用テント三張、大型テント二張が設置され、テント前に「橋本哲朗糾弾斗争本部」の看板が掲げられ、橋本宅前付近道路のガードレール支柱には荊冠旗および支援団体の旗などが立てられた。午後三時ころ、被告人丸尾が同所に来て、被告人尾﨑龍に対し道路使用許可申請書の変更を指示し、同被告人は、和田山警察署に赴き参加人員を約五〇〇名に変更する旨の変更届を提出し、受理された。その後同被告人ら約一〇名くらいが前記テント付近の空地などで焚火をしながら雑談して時を過ごした。

(ロ) 午後六時五〇分ころ、約三五〇名の同盟員らが公民館前空地に集合し、同所において、被告人安井義隆が音頭をとつて解放歌斉唱、シュプレヒコールなどした後、午後七時ころ、被告人丸尾の指揮により前同様橋本宅に向けてデモ行進をし、同所付近において、被告人尾﨑龍が、マイクロバス(いわゆる解放車。以下単にマイクロバスということがある。)のマイクを用いて「お前が出てくるまで一週間だろうが、一か月だろうが、一年だろうが、わしらは毎日来るぞ。」「お前を倒すまで、お前がぶつ倒れるまで、わしらは糾弾して、糾弾して、糾弾しまくるぞ。」「お前を殺して部落が解放されるんだ。」などと演説し、この間同盟員らは「橋本哲朗出てこい。」「橋本哲朗糾弾。」「部落解放同盟は斗うぞ。」などとシュプレヒコールし、さらに被告人安井義隆の演説、同被告人の音頭によるシュプレヒコールを繰り返した後、八時ころ公民館に引き上げ、解散した。

(ハ) 引き続き公民館において約二五名の同盟員らが集合して共斗会議が開かれたが、午後八時二〇分ころ終了し、その後は前夜同様被告人尾﨑龍ら三名が前記テント内で宿泊した。

(3) 一〇月二二日

(イ) 朝から午後四時ころまでの間、前記テント付近に数名ないし一〇名程度の同盟員らが待機し、時折、数名の同盟員らが橋本宅西側通路に駐車したマイクロバスのまわりにたむろし、あるいはその付近から「赤犬」などと怒号するなどの状況のまま推移した。

(ロ) 前記のとおり午後四時五分ころ、木下元二衆議院議員ら七名が二台の乗用車に分乗して橋本宅を訪れ、警察官が右乗用車を橋本宅西側空地に入れて駐車させたところ、午後四時二〇分ころ、部落解放同盟澤支部所属のマイクロバスがその出入口先路上に来て駐車し、右乗用車の出口を塞ぎ十数名の同盟員らがそのまわりを取り囲んだ。四時三〇分ころ、被告人丸尾が右マイクロバスの上に乗つてアジ演説を始め、このころには、約二〇名の同盟員らが同車のまわりに集結した。

(ハ) 午後五時ころ、前記木下ら七名が橋本宅から出て乗用車に分乗し発進させようとしたところ、同盟員らは口々に「日共差別者集団糾弾。」などと叫び、被告人丸尾の指示により同盟員らがスクラムを組んで右マイクロバスのまわりを取り囲み、被告人尾﨑龍が同車のエンジンキーを引き抜くなどして同車を移動できなくしたうえ、前判示のとおり同被告人の父で同盟員である尾﨑明義が同車と木下らの乗用車との間の溝蓋の上に寝転び、被告人丸尾が「お前達が車をバックさせたら殺人者として法廷に出んならんことは明らかだ。」「お前達の車がちよつとでも動いてみろ、殺人者だ。」などと怒号し、木下らの乗用車の発進を阻止した。その後も同盟員らは警察官の警告を無視し、出入口付近を塞いだままアジ演説を続けるなどし、五時二七分ころには同所付近に集合した同盟員らの数は約一〇〇名に増加した。そこで、五時三〇分ころ、木下らは乗用車を発進させることを断念し、警察官の勧めに応じていつたん下車し、再び橋本宅に入つた。

(ニ) 午後五時三五分ころ、被告人丸尾の指示により、同盟員らは、右マイクロバスを前記橋本宅西側空地の出入口付近から西側通路に移動させ、その後同所付近から、被告人尾﨑龍が、「こら、橋本、佐藤、こら共産党出てこい。」などと、被告人安井義隆が、「徹底的にこの橋本をこの会場で糾弾して共産党議員も自己批判するところまで、我々は斗つていかなければいかんのや。」などと、被告人丸尾が、「お前のやつていることは、いかなる卑劣な人間のやつたことよりもなお卑劣である。」などとそれぞれ演説し、同盟員らがシュプレヒコールを繰り返すなどした。六時三〇分ころには、集合した同盟員約三五〇名中約一五〇名が路上でデモ行進するなどした。

(ホ) 午後七時ころ、約五〇〇名の同盟員らが橋本宅前付近に集合して同所で集会が始まり、被告人丸尾の司会により支援団体の決意表明などに続き、被告人尾﨑龍、同丸尾、同安井義隆が交互に音頭をとつて「橋本哲朗出てこい。」などと頻繁にシュプレヒコールを繰り返し、七時四三分ころから同五九分ころまでの間、被告人丸尾の指示により被告人安井義隆のかけ声で「部落解放」「橋本糾弾」などと叫びながら橋本宅前をデモ行進した。右デモ行進終了後参加者の多くは公民館前に引き上げたが、被告人丸尾の指示により、澤支部同盟員ら約一〇〇名が橋本宅を囲んで待機し、さらに九時前ころには、約一五〇名の同盟員らが橋本宅西側通路付近に集合し、一二時前ころまでの間、断続的にアジ演説、シュプレヒコール、解放歌斉唱などを繰り返した。

(ヘ) この間午後八時四〇分ころ、機動隊が橋本宅前道路から田路川を挟んだ対岸の農道上に到着し、同盟員らを実力で排除する態勢がととのつたことから、一〇時ころ、和田山警察署長上田勝三らが橋本宅に入り、木下らに対し、橋本宅からの退去を促したが、木下らは、同盟員らによる橋本宅の包囲を即時排除するよう要求して退去しようとせず、その後再三の退去要請にも応じようとしなかつた。

(4) 一〇月二三日

(イ) 同盟員らは、前夜に引き続き橋本宅付近に待機し、断続的にアジ演説、シュプレヒコール、解放歌斉唱などを繰り返したが、そのうち被告人丸尾、同尾﨑龍ら男子同盟員の多くは、多数の民青同盟員らが橋本支援のため朝来町役場付近に集合したことに対応するため同所へ赴き、その後は女子同盟員らが中心となり、その人数も午前三時四五分ころ約五〇名、五時ころ約三〇名、六時三〇分ころ約一〇名に漸減した。

(ロ) 午前八時過ぎころ、橋本宅付近に同盟員らが集合し始め、八時三〇分ころ、朝来町役場付近で民青同盟員らと対峙していた同盟員ら約四〇〇ないし五〇〇名が隊列を組んで橋本宅付近に行進し、同所で、集会をした後、八時四五分ころ解散した。その後も約一〇〇名前後の同盟員らが橋本宅前に集つたり公民館前に引き上げたりしながら同所付近に残留し、被告人丸尾その他の同盟員らがアジ演説、シュプレヒコール、解放歌斉唱を繰り返し、あるいは機動隊、民青同盟員らと対峙するなどした。

(ハ) 午後七時ころ、橋本宅周辺に五〇〇ないし六〇〇名の同盟員らが集つて被告人丸尾の司会で集会が始まり、七時四六分ころから八時までの間、同被告人の指示により約一〇〇〇名の同盟員らが橋本宅付近路上でシュプレヒコールを繰り返しながらデモ行進をした。その後は一〇〇名前後の同盟員らが橋本宅前付近に残留して断続的にシュプレヒコールするなどし、公民館前付近には相当数の同盟員らが待機していた。

(ニ) 午後九時一五分ころ、約五〇〇名の民青同盟員らが口田路橋(島井橋)北側付近に集つて来た。一〇時ころ、被告人丸尾の指示により約二五〇名の同盟員らが橋本宅前に集合し、一〇時二〇分ころ、同盟員らがシュプレヒコールする中、前記木下、前田および谷岡の三名が橋本宅から出て、妨害を受けることなく、警察官に先導されて乗用車で立ち去つた。その後も約一五〇名の同盟員らが同所付近に留つてアジ演説、シュプレヒコールなどを続けたが、一一時過ぎころには、橋本宅付近には約三〇名の同盟員らがたむろする程度で、約二五〇名の同盟員らが口田路橋付近において前記民青同盟員らと対峙した。

(5) 一〇月二四日

(イ) 前日から引き続き、口田路橋付近において、同盟員らと民青同盟員らが対立し、互いに相手を非難するシュプレヒコールを繰り返すなどしていたが、午前二時過ぎころ、民青同盟員らは新井方面に引き上げた。その後も同盟員らの一部は、夜明けころまで橋本宅周辺で焚火をするなどしながら過ごした。

(ロ) 午前七時過ぎころ、橋本宅前にマイクロバスが来てエンドレステープによる放送を始め、同盟員らはその後、由利若神社前付近および口田路橋付近において民青同盟員らと対峙する一方、約二〇〇名の同盟員らが橋本宅前付近あるいは公民館前を行き来しながら、被告人尾﨑龍らの指揮で、「橋本出てこい。」「日共糾弾。」なとどシュプレヒコールを繰り返し、解放歌を斉唱するなどした。午後二時四〇分ころ、民青同盟員らは引き上げたが、その後も同盟員らは橋本宅前付近から断続的にシュプレヒコールなどを繰り返し、あるいは怒号するなどした。

(ハ) 午後七時ころ、約五〇〇名の同盟員らが橋本宅前に集合し、被告人安井義隆の司会で集会が始まり、演説、シュプレヒコール、解放歌斉唱などした後、八時過ぎころ集会は解散したが、このころには約二〇〇〇名の同盟員らが参集していた。その後も被告人丸尾の指示により約二〇〇名の同盟員らが橋本宅前付近に残り、断続的に肉声でシュプレヒコールし、あるいは橋本宅の窓ガラスをライトで照射し、数十名がデモ行進をするなどしたが、九時過ぎころ被告人丸尾が同盟員らに対し静かにするよう指示し、これ以後二〇〇名の同盟員らは、橋本宅付近で焚火を囲むなどして待機した。

(6) 一〇月二五日

(イ) 前夜に引き続き同盟員らは橋本宅付近で焚火をするなどして夜を過ごしたが、その数は午前零時四五分ころ約八〇名、午前一時三五分ころ約一〇名、午前三時五一分ころ約一〇名(その他テント前に約三〇名)、午前六時四三分ころ約三〇名であつた。また付近に駐車中の乗用車、マイクロバス内で多数の同盟員が仮眠していた。

(ロ) 午前九時過ぎころ、被告人丸尾は、斗争本部前付近で演説を始め、同被告人の指揮で同盟員ら約一〇〇名が同所から橋本宅前付近に移動し、同被告人が、約二五〇名の同盟員らに対し、約一時間にわたつて演説した。右演説終了後も一五〇名以上の同盟員らが同所付近に集つたまま、間断なく演説、シュプレヒコール、解放歌などを繰り返し、一部は公民館に引き上げたが、その後も少ない時で数十名の同盟員らが橋本宅周辺に待機し、多い時には数百名の同盟員らが集合して、アジ演説、シュプレヒコール、解放歌などを続けた。

この間午前一一時二〇分ころ、前記佐藤が橋本宅を立ち去つた。

(ハ) 午後七時ころ、橋本宅前付近路上において、多数の同盟員らが参加し、被告人丸尾のあいさつにより集会が始まり、支援団体などによる決意表明、シュプレヒコール、解放歌斉唱などが行われ、午後八時過ぎころ終了した。集会終了後も約一五〇名の同盟員らが同所に残留して肉声で間断なくシュプレヒコールするなどし、その後も焚火を囲むなどして付近に残留した。

(7) 一〇月二六日

(イ) 午前八時ころから、橋本宅前で同盟員らによるアジ演説が始まり、その後午前一一時四五分ころまでの間、マイクロバスの上からマイクを用いて被告人安井義隆ほか同盟員らがアジ演説あるいはあいさつなどをし、約五〇名の同盟員らが橋本宅西側通路からこれに呼応してシュプレヒコール、解放歌斉唱をするなどの状況が間断なく繰り返された。

(ロ) その後同盟員らは、付近を清掃するなどしたのち、同所付近から引き上げ、朝来町役場前での集会に向かつた。

2被告人らの行動

(1) 被告人丸尾良昭

昭和四九年一〇月初めころ、部落解放同盟澤支部青年部の被告人尾﨑龍らから、橋本を糾弾する旨の話を聞き、具体的な実施計画などについては青年部員らに任せるとともに、澤支部としての協力を申し出た。同月二〇日、二一日の両日は、午後七時前ころ由利若神社前広場に来て前記認定のとおり午後八時ころまでの間、同所付近および橋本宅前付近で演説、デモ行進の指示などをして集会を主催し、その後公民館で共斗会議を開催したほか、二一日午後三時ころ、斗争本部付近に来て被告人尾﨑龍に対し、道路使用許可申請書の変更を指示した。同月二二日午後四時三〇分ころ、橋本宅前付近に来て前記のとおり演説するなどして同盟員らを指揮し、午後七時ころからは集会のあいさつ、デモ行進の指示などし、集会終了後澤支部同盟員らに指示して橋本宅を包囲させ、あるいは付近に待機させ、その後も夜半過ぎまで、同所で演説するなどした。同月二三日午前八時三〇分ころから八時四五分ころまでの間、前示のとおり橋本宅前で集会を開き、その後も午後一時過ぎころまで、同所又は公民館前にいて、橋本宅前で繰り返し演説するなどした。午後七時ころから集会を開き、演説、シュプレヒコール、デモ行進の指示をするなどし、右集会終了後も同月二四日午前三時ころまで、橋本宅付近、公民館付近および口田路橋付近において同盟員らの行動を指揮した。二四日午前中から、口田路付近および公民館前付近において同盟員らに対し指揮、演説などし、同日午後もしばしば橋本宅前および公民館前に来て演説した。午後七時ころから、橋本宅前で集会を主催し、集会終了後翌二五日午前二時ころまで、同盟員らに指示を与えるなどしながら待機した。同日午前八時過ぎころ、公民館前へ行き、午後二時ころまで同所付近で待機し、あるいは橋本宅前で演説するなどした。午後七時ころから橋本宅前で集会を主催し、集会終了後も引き続き糾弾することを指示し、同夜は公民館で宿泊した。同月二六日、新井、青倉駅などの様子を見に行く一方、橋本宅付近で同盟員らに指示を与えるなどし、昼ころ、同所を立ち去つて朝来町役場前へ向い、同所で集会を開いた。

(2) 被告人尾﨑龍

部落解放同盟澤支部青年部副部長(当時)として橋本哲朗糾弾の計画、準備に参加し、前示のとおり同人に通告ビラを手渡すなどした。一〇月二〇、二一日の両日は午後七時ころからの集会に参加し、シュプレヒコールの指揮(二〇日)、演説(二一日)をするなどしたほか、前記テント内で宿泊し、道路使用許可申請の変更届をするなどした。同月二二日午後四時三〇分ころ、橋本宅前付近に来て同宅前の行動に参加し、前示のとおりマイクロバスを囲むスクラムに加わつたり、アジ演説するなどした。午後七時ころから同所での集会に参加してシュプレヒコールするなどし、その後午後一一時ころまで同所にとどまつた。同月二三日午前八時三〇分ころ、橋本宅前に戻つて集会に参加し、その後、民青同盟員らとの抗争に加わり、夕方ころからはテント付近で待機した。午後七時ころ、橋本宅前の集会に参加し、終了後も同所付近に残りシュプレヒコールなどを続け、同夜は公民館前に駐車した乗用車内で宿泊した。同月二四日、昼過ぎころテント付近に戻り、同所付近で時を過ごしたが、この間約一時間橋本宅前に行つてシュプレヒコールの音頭をとるなどした。午後七時ころ、橋本宅前の集会に参加し、その後も同所に残つてシュプレヒコールをするなどし、午後一〇時過ぎころ、公民館前に戻つて同所の乗用車内で宿泊した。同月二五日午前一〇時ころから正午ころまで、橋本宅前の糾弾に参加し、さらに午後四時三〇分ごろから約一時間にわたり同宅前の包囲に加わり、シュプレヒコールをするなどした。午後七時ころ、橋本宅前の集会に参加し、その後も同所付近にとどまり大声で怒号するなどし、午後一一時過ぎころ、公民館前に戻り乗用車内で泊つた。同月二六日正午ころまで公民館付近において、テントの後片づけをするなどし、その後朝来町役場前の集会に参加した。

(3) 被告人安井義隆

橋本哲朗糾弾斗争の計画を知り、一〇月二〇日および二一日の二日間はいずれも午後五時三〇分ないし六時ころ現場付近に出かけ、午後七時からの集会に参加し、演説、シュプレヒコール、デモ行進の指揮をするなどした。同月二二日夕方ころ橋本宅付近へ行き、午後五時四五分ころから同所付近で、同盟員らに対する演説をし、あるいはシュプレヒコールの音頭をとるなどし、午後七時からの集会に参加して演説、デモ行進の指揮をするなどした。集会終了後も橋本宅付近に残留したが、その後朝来町役場付近へ赴いた。同月二三日午前八時三〇分ころ、橋本宅前の集会に参加して演説し、その後も同所付近等に残つて解放歌の指導、演説するなどした。午後七時ころ、同所での集会に参加し、その後も、同所付近で同盟員らに対し待機を指示するなどした。同夜以降二六日昼ころまでほとんど現場付近に滞留し、夜は公民館などに宿泊した。同月二四日、口田路橋付近での民青同盟員らとの抗争およびその後の橋本宅前での糾弾に参加してシュプレヒコールするなどし、午後七時ころ、集会に参加して司会を務めた。同月二五日も集会に参加するなどし、二六日は、午前中橋本宅前でマイクロバスの上からアジ演説をするなどした。

(4) 被告人安井千明

一〇月二二日午後五時前ころ橋本宅前付近に到着し、他の同盟員らとともに、木下らに対し、「お前らここへ何しに来た」などと怒号し、マイクロバスを取り囲んだスクラムに加わり、これを排除しようとする警察官に抵抗するなどし、その後同所付近で開かれた集会に参加し、午後九時ころまで現場にいた。

(二)右に認定した事実によれば、一〇月二二日午後五時三〇分ころから同月二六日午前一一時四五分ころまでの間、被告人丸尾ら三名が、多数の同盟員らともども橋本哲朗を監禁したことを優に認めることができる。

すなわち、一〇月二〇日午後七時前ころから同人に対するいわゆる糾弾斗争が開始され、前認定((一)の1の(1)ないし(3)の(イ))のとおりの状況で推移した(この間における監禁罪の成否については、後記「無罪部分の判断」の項参照。)が、同月二二日午後四時過ぎころ、前記木下らが橋本宅を訪問したことを契機として、このころからこれを聞知した同盟員らが同所付近に集合し始め、前示のとおり同日午後五時三〇分ころには、約一〇〇名の同盟員らが同人宅西側空地入口付近に集つて同人宅に向けて演説、シュプレヒコールをするなどの事態になつた。それ以後毎日午後七時ころから八時ころの間は約五〇〇ないし二〇〇〇名の同盟員らが参集して同宅内の橋本哲朗に対しマイクを用いるなどして演説、シュプレヒコールを繰り返すのみならず、右集会終了後も一〇〇ないし二〇〇名程度の同盟員らが同所に残留して肉声でシュプレヒコールなどを続け、夜半から翌朝にかけては、約一〇ないし数十名の同盟員らが橋本宅西側通路などで焚火を囲むなどしながら同宅の動静を窺い、昼間は常時数十ないし二〇〇名程度の同盟員らが同宅前路上、西側通路などに待機し、断続的にシュプレヒコール、演説などを反覆するなどしていたものであり、同月二六日午前一一時四五分ころまでの間、終始同盟員らが同宅付近から退散することがなかつたことは明らかである。このような同盟員らの行動は、多数の同盟員で同宅を取り囲み、橋本を看視しあるいは演説、シュプレヒコールなどで威圧することにより橋本が同宅から自由に出入りすることを断念させるに十分な行為というべきである。

前認定の同盟員らの待機、集合の状況、その間の言動、本件の推移などからすれば、たとえ、十名程度の同盟員らが橋本宅内の動静を窺つているにすぎない状況が一時的にあつても、これが、右橋本に対し、もし同宅から出れば同盟員らに発見され、多数の同盟員らから同人の意に反した糾弾を受けざるをえない状況に追い込まれるとの危惧を抱かせ、同宅から出ることを躊躇させる監視としての意味をもつ行動であるといわざるをえず、結局、この間の同盟員らの所為は、全体を通じ監禁罪を構成するものと認められる。

弁護人は、この間橋本哲朗の妻玲子をはじめ、日本共産党関係の支援者、弁護士らが同盟員らに妨害されることなく橋本宅に出入りしていたのであるから、同宅付近は脱出不可能あるいは著しく困難な状況ではなかつたと主張するのであるが、被告人らの糾弾の対象は橋本哲朗個人であつたというべきであるから、仮にそれ以外の人の出入りが自由に行われていたとしても、これをもつて同人に対する監禁がなかつたことの証左とすることができないことは勿論である。

(三)さらに弁護人は、被告人らの行為の目的は右橋本を同人宅に閉じこめることではなく、逆に同人に外へ出ることを求めることにあつたのであるから、被告人丸尾らに監禁の故意がなかつたと主張する。しかしながら同被告人らの本来の目的がそうであつても、被告人らは、前認定のとおり客観的に橋本をして同人方からの自由な出入りを著しく困難ならしめる状況を自ら作り出し、その状況の認識に欠けるところがない以上、同被告人らには監禁の故意があつたといわなければならない。

次に弁護人は、本件では被告人間に事前謀議の事実はなく、また、本件期間中終日現場にいた被告人はいなかつたのであるから、本件全期間を通じての監禁の罪責を問うことはできないと主張する。しかしながら、本件は、前示のとおり橋本哲朗に対する糾弾として、被告人丸尾の了承を得て被告人尾﨑龍ら澤支部青年部の構成員らが中心となつて計画し、その呼びかけに応じて被告人安井義隆らが参加したもので、これのみをもつて監禁の事前共謀と評価しうるものではないが、前示のとおり、一〇月二二日午後五時三〇分以後は、橋本哲朗が同盟員らの包囲、監視と威圧により継続的に監禁状態にあつたと認められるところ、被告人丸尾および同尾﨑龍は同日午後四時三〇分ころ、被告人安井義隆は遅くとも同日午後五時四五分ころには橋本宅前に来て、それ以後右三名はおおむね継続して現場に滞留し、前判示の糾弾の状況を十分認識しながら、それぞれ前判示の行動をとつていたもので、右行動が監禁罪の実行行為の一部と見られることは明らかであり、これら現場付近の状況、被告人らおよび他の同盟員らの行為態様からすれば、被告人らおよび他の同盟員らとの間に、橋本をして屋外への自由な出入りを著しく困難ならしめるについての意思連絡があつたものと認めざるをえないから、被告人丸尾ら三名は、いずれも共同正犯としての責任を負うことは明らかである。

(四)次に、木下らに対する監禁罪の成否等について検討すると、関係証拠によつて認められる本件当時の状況は、前記(二)の1の(3)項(一〇月二二日の糾弾状況など)に示したとおりであつて、これによれば優に監禁罪の成立を認めることができる。

すなわち、前認定のように、木下らの乗用車の出入口を同盟員らが取り囲んだマイクロバスで塞ぎ、同盟員尾崎明義が右乗用車の後方の溝蓋の上に寝転ぶなどの状況からすれば、同車を発進させることが事実上不可能であることはもとより、約一〇〇名の同盟員らが右出入口付近に集合し、前記のような状態で右佐藤及び同人らの所属する日本共産党に対し激しい非難を繰り返し、「こら佐藤、橋本出てこい。」「出たいんだつたらはじめから入つてくるな。」などと口々に怒号を浴びせ、警察官の説得に全く応じないなどの状況からすれば、右木下らにおいて、徒歩などの方法で同所からの退出を断念し、橋本宅に引きこもることはやむをえないというべきである。右マイクロバスを移動させた後も、被告人丸尾において、前示のとおり同盟員らにピケットを指示したうえ、さらに多数の同盟員らが橋本宅付近に集まり、アジ演説、シュプレヒコールを繰り返し、デモ行進をするなど示威的な行動を続けていたものであつて、木下らにおいて、同所からの自由な出入りができる状態であつたとは到底認められない。

被告人丸尾、同尾﨑龍、同安井千明は、本件現場においてそれぞれ前記認定のとおりの行動をして、いずれも前記のとおり木下らをして同所からの退出を著しく困難ならしめる状況を十分認識しながら、他の解放同盟員とともにそれぞれ積極的にこれに加功する行動をとつていたことが明らかであるから、被告人丸尾らの右監禁罪についての故意および共謀の事実も十分これを肯認することができる。

三  判示第三の事実(生野駅・南真弓公民館事件)について

別表(二)記載の久後生歩など二〇名の被害者が多数の解放同盟員らによつて、その意に反して生野駅ホーム上から南真弓公民館まで連行された後同所において監禁され、さらに同ホーム上および同所において同人ら一三名が暴行を受けて負傷するに至つたという判示第三の事実が認められることは証拠上明らかである。

問題は被告人杉田および同木戸口の刑事責任の有無にあるので、この点についての当裁判所の判断を付記する。

(一)被告人杉田の刑事責任

前掲証拠によれば、次の事実を認めることができる。

1被告人杉田は部落解放同盟南真弓支部副支部長として、生野小学校確認会、橋本哲朗糾弾斗争などに参加してきたが、右橋本糾弾斗争に際し日本共産党が解放運動を妨害し解放同盟を非難するビラを配布しているとして、かねてより、腹立たしく思つていた。

本件当日も、所属南真弓支部が行なう解放運動の地域内である生野駅で右のごときビラが配られているらしい旨を自宅で聞かされて仕事をとり止め、同日午前九時ころ、急遽同駅に赴き、折柄ビラ配布を終えて同駅下りホーム上で帰途の列車を待つていた判示被害者らに対し、はじめは同ホーム柵外からついで同ホームに入り、他の解放同盟員らとともに「なぜ、ビラをまいたか、理由をいえ。」などと激しく抗議していたところ、橋本斗争に参加していた南但支連協の解放同盟員らが次々に集結し、本件が発生したものである。

2同駅ホームにおける抗議および南真弓公民館における糾弾を通じ、被告人杉田は指揮者、主催者の一人として他の解放同盟員らを指揮し、糾弾会を進めた(この点は、多くの被害者の供述が一致するだけではなく、弁護側証人の前田吉幸も同被告人がこの糾弾会の責任者の一人であつたこと、活発に発言していたことを証言している。)。その具体的な行動は、以下に見られるところである。

3被害者らが乗車予定の列車(同駅午前九時一九分発下り急行但馬一号)が同駅に到着した際、被告人杉田は、その場にいた解放同盟員らともども口々に「列車に乗せるな」と叫び、解放同盟員らが列車と被害者らとの間に人垣を作つた。そのため被害者らは同列車に乗ることができず、ホーム上にスクラムを組んで座りこんだ。

その後被告人杉田は、被害者らに対し「一〇分間時間をやるから話し合いに応ずるかどうか考えろ」と言い、この一〇分程度の間はそれまであつた被害者らに対する罵声や押す、こづくなどの行為は途切れていたが、右時間経過後に同被告人が、被害者らを南真弓公民館で糾弾するためその場にいた解放同盟員らに対し「公民館へ連れて行け」と指示したのをきつかけにして、スクラムを組んで座りこんでいた被害者らに対し、判示のとおり暴行が加えられ、かつ逮捕が開始され、ついで被害者らはマイクロバスに乗車させられて公民館に連行されるに至つた(この時点ですでに同被告人は帰宅していたとする、被告人・弁護人の主張は採用できない。)。

4公民館においては、被害者らが警察官に救出されるまでの間同被告人は、ほぼ終始二階の糾弾会場にいて他の多数の者とともに被害者らを取り囲みあるいはその前面に立ちはだかるなどしたうえ、「名前を言え」「リーダーは誰だ」などと怒号し、リーダーが西村英弥であることが判明した後は西村を対象に激しい糾弾をした。また、糾弾の方式などについても他の解放同盟員らに指示をした。たとえば、同被告人らの指示で同日昼前ころ、車座に座らされた被害者らを取り囲んで糾弾する方式が、被害者らと解放同盟員側が机をはさんで正対する方式に変更され、また昼食休憩後は西村を対象とした糾弾になつた。

なお、被害者らが判示のとおりの暴行を受けている際、被害者山本篤の付近に来て「君達は若いんだから、大事にしなさい、県連の者が来たらこんなことではすまされん。」と申し向けた。

5同日午後二時三〇分ころ、被害者救出のため警察官が右会場に入つた際、他の解放同盟員らとスクラムを組んで立ち並び、解放歌の音頭をとり、あるいはシュプレヒコールを繰り返した。

以上認定の諸事実に照らすと被告人杉田が判示第三の犯行につき共同正犯としての刑事責任を負うことは明らかというべきである。すなわち、

1判示犯行は、前示のとおり、橋本事件に関する解放同盟の行動を批判するビラを配布した者に対し、解放同盟員らが抗議、糾弾する過程で生じたものであるが、被告人杉田も前認定のとおり、同じ解放同盟員としてかねてからこの種ビラの配布に反感を持つており、本件当日も前認定の経緯で生野駅にかけつけたものであつて、本件のこれら動機、経緯からして、元々同被告人は他の共犯者と意思相通じる基盤があつた。

2とくに被告人杉田は、地元の解放同盟南真弓支部副支部長として、当日の行動全般につき他の解放同盟員らを指揮し、糾弾会を進める立場にあつたことは前述のとおりであるが、本件犯行についても、他の解放同盟員らの犯行を面前で認識しながらこれを阻止せず、むしろこれをも含めて指揮(支配)していたと考えられる。すなわち、生野駅ホームにおいては、前認定のとおり、「一〇分間時間をやるから云々」という被告杉田の指示に応じて他の解放同盟員らの被害者らに対する罵声やこづくなどの行為が途切れ、逆に「公民館へ連れて行け」という指示をきつかけにして判示の暴行や逮捕が始つたのである。公民館においても事情は同様であり、同被告人らの指示で前記のとおり糾弾の方式が変つたことにより、それまで行なわれていた判示の暴行がなくなつた。

3右の「公民館へ連れて行け」という指示は、逮捕ひいては監禁を指揮した言葉として重要であるばかりか生野駅における有形力行使についての被告人杉田の意思を推認させるものとしても重要である。というのは、帰途の列車に乗ることを阻止され、しかも被告人らに対し不服従の意を示してスクラムを組んで座りこんでいる被害者らを「連れて行け」という以上は、連行に際して、指示を受けた者が有形力を行使することを被告人杉田は当然認識、認容していたといわなければならないからである。公民館における有形力の行使についても同様であることは、前認定のとおり、現に暴行を受けている山本に対しこれを認容する趣旨のことばをかけていることからうかがわれる。

なお、公民館における監禁については、以上の点のほか、被告人杉田の実行行為を指摘することができる。すなわち、同被告人は、先に認定したとおり、公民館において他の多数の者とともに被害者らを取り囲みあるいはその前面に立ちはだかり、また「リーダーは誰だ。」などと怒号しているのであつて、これらの行為は、被害者らが同館内から脱出することを困難ならしめているといえるから、監禁については同被告人はむしろ実行共同正犯というべきである。

以上のとおり、被告人杉田は、本件各犯行につき、共同正犯としての責任を免れない。

(二)被告人木戸口の刑事責任

前掲証拠によれば、次の事実を認めることができる。

1被告人木戸口は、本件当日前記橋本糾弾斗争に参加し、橋本宅付近にいたが、他の解放同盟員から「生野駅周辺で解放同盟を批判するビラを配つていた民青の者二〇数人を真弓公民館に真弓支部の者が連れて行つて糾弾している。」と知らされ、糾弾会に参加すべく南真弓公民館へ赴いた。

2同公民館二階の糾弾会場において、同被告人は、車座に正座させられていた被害者らに対し他の解放同盟員らともどもこれを取り囲み、暴力を振つたが、たとえば被害者白髭寿一に対しては他二、三名とともに判示のとおり殴るけるの暴行を加え、同長谷部正則に対しては、その胸をけつた。

3同日昼前ころ、前記のとおり糾弾の方式が変つた後は、同被告人は多数の解放同盟員側の最前列に出て被害者らと相対し、大声で激しく糾弾した。昼食休憩後は、もつぱら公民館の玄関前に出て、警察官が被害者救出のため館内に入るのを実力で阻止しようとするなどした。

以上認定の事実によれば、被告人木戸口は、被害者らが公民館に連行された本件犯行に加功したこと、加功後の各犯行につきいずれも実行共同正犯としての刑事責任を負うことが明らかである。

1公民館における暴行について同被告人はこれを争うが、同被告人が、被害者らが車座に正座させられていた時点ですでに同公民館に到着しており、かつ被害者らに暴行を加えた事実を証する証拠は前掲各証拠中多数存在する(白髭、小石原、谷脇、長谷部、大森、多田の各証言、谷脇、福恵の検察官に対する各供述調書、とくに被害者長谷部は正面から胸をけつた犯人を認識する機会があり、当時認識した犯人の人相、着衣、体格などは被告人木戸口のそれとほぼ一致し、信用性が高い。)。多数の者が同被告人を犯人と誤認する可能性はとぼしいから、被告人木戸口が被害者らに暴行を加えたと認定するのが相当である。

監禁について同被告人の前認定の諸行為がその実行行為にあたる点は被告人杉田について述べたと同様であるほか、被告人木戸口は、監禁された被害者らの救出を計つた警察官が館内に入るのを実力で阻止しようとしたこと前示のとおりである。

2加功前の本件犯行につき同被告人がどの程度刑事責任を負うかについては、いうまでもなく承継的共同正犯の成否である。

同被告人が本件犯行に加功した際認識していた事情は前記1のとおりであるほか、関係証拠によれば、被害者らが公民館内において監禁状態におかれていたことおよび被害者らの中に負傷している者がいたことである。

同被告人が認識していた右の事情からすると、被害者らが同公民館に強制的に連行されこれにともなつて有形力の行使があつたと、同被告人が推知していたと認めるのが相当である。したがつて、同被告人は加功前の共犯者の犯行の概要を認識し、その後自らも本件犯行に加功したというべきであつて加功前の逮捕、暴行(傷害)罪についても承継的に刑事責任を負う(ただし、被害者大森、渡辺については、生野駅ホームでの暴行でのみ傷害の結果が発生していることが明らかであるから、右二名に対する傷害の刑事責任をも同被告人に承継的に負わせるのは相当でないので、右二名に対しては暴行の限度で刑事責任を負うと解すべきである。)。

四  判示第四の事実(新井駅事件)について

被告人大垣政次が、判示第四の日時、場所において、自らは、判示河合博に対し右大腿部をけり、あるいは右顎を殴打し、また判示神野貞雄に対し角材でその前頭部を殴打するなどして、判示犯行に加功したことは、前掲各証拠により明らかである。すなわち、右河合および神野の犯人の特定に関する証言は、微細な点で喰い違いあるいは客観的事実に沿わないが、両名とも、多数の写真の中から犯人の人相、風体に関する当時の記憶および認識に基づき、結局は右の犯人として同被告人のそれを選び出した点において一致するほか、重要なことは、神野が解放同盟側の一団の前列付近にいて相対していた男に頭部を角材で殴打され、その犯人は手の甲あたりに白い布状のものを巻いていたというきわめて特徴的な点で符合するから、十分これを信用することができる。そして、同被告人が当時解放同盟側の一団の前列付近にいて被害者らと相対しており、また手の甲あたりを白い布で包帯していたことは同被告人も自認するところであり、また当時現場に同様の特徴を備えた者が他に存在したというような事情も窺えないのである。

してみると、同被告人が角材で神野を殴打するなどして判示犯行に加功していたことに疑はないというべきである。もつとも、同被告人は、当時右手関節捻挫のため右手に痛みがあり、また右手首から手の甲にかけて副木、包帯をしていたから物理的に言つて到底右のような犯行はなしえないと弁解する。しかし、医師芝辻正夫の証言により認定できる、同被告人が当時罹患していた右手関節捻挫の程度、副木や包帯の状態等からすると、同被告人が右のような犯行をなすことは物理的には不可能ではないと認められる。また、これに関連した弁護人の種々の主張を検討しても、右認定を覆す要をみない。よつて、同被告人に判示の罪責を認めた次第である。

五  判示第五の事実(青倉駅事件)について

前掲各証拠によれば、被告人尾崎文雄が、判示第五の日時場所において、判示撰梅忠雄に対し顔面を殴打し、あるいは股間を足げりし、植木敏久に対し顔面を手拳で殴打し、清水馨に対し顔面を手拳で殴打し、あるいはジャンパーをつかんで引き寄せ、岡野次郎に対し腹部、大腿部を膝げりするなどして判示犯行に加功したことは明らかである。

すなわち、右撰梅ら四名が、前判示の日時場所において部落解放同盟員らから暴行を受け、前判示の傷害を負つたことは、前掲各証拠により明らかなところ、右四名は、いずれも公判廷において、被告人尾崎文雄を指し、前記各暴行を加えた犯人は同被告人である旨明確に供述しており、同人らは、本件被害当時手や足が届く至近距離から暴行を受け、その犯人を現認していること、被害後約二か月ころまでの間に、捜査官から写真を示され、多数の写真の中からその犯人として同被告人を特定していることからすれば、同人らの供述の信用性は相当高いと思われる。とりわけ、右犯人の特定につき、植木は、目のあたりに絆創膏を貼つていたこと、岡野は、金縁の薄い茶色のサングラスをかけていたこと、清水は、ジャンパーかズボンのポケットに手をつつこみ肩をいからせて歩くことなど、同被告人自身の供述その他関係各証拠によつて認められる同被告人の際立つた特徴と符合する供述をしており、ほかにこのような特徴を備えた者が本件現場にいたことを窺わせる事情はないのであるから、同人らの供述は特に信用に値する。また、同被告人は、本件当時現場において、解放同盟員らの最前列に出て、被害者側の駐車車両の付近にいた民青同盟員らしい若い男二、三人を殴つたことがある旨自認しており、同被告人が供述するその場所と、撰梅、植木、清水らが同被告人から暴行を受け、あるいは同人らがいたと主張する場所とはおおむね一致しており、このことは、右撰梅らの供述を裏付け、同被告人が前記各犯行の実行行為者であることを推認させるとともに、前判示の各事実につき共同正犯としての加功を示すものということができる。

同被告人は、昭和三七、八年ころ労働災害事故により右足に障害等級五級の障害を受けたため、本件当時被害者を足や膝でけることはできなかつたと弁解する。しかし、右撰梅、岡野の両名は、同被告人から足げり、膝げりされた状況を明確に証言しているうえ、同被告人は、当時重機運転手として稼働していたこと、本件現場でも乗用車のボンネットの上に登るなどしていることからすると、右のような犯行をなすことが不可能であつたとは考えられず、結局、右弁解は措信できない。

なお、本件公訴事実別紙一覧表番号1、撰梅忠雄の受傷状況欄には、加療約三週間を要する右頭頂打撲性裂創等の記載があり、医師三好栄三郎作成の診断書によれば、同人は、右傷害および両背部打撲の傷害をも受けていたことが認められるが、関係各証拠によれば、右各傷害は同被告人らの本件犯行終了後、右撰梅らが竹田駅方面へ向けて歩いていく途中、他の同盟員らから受けた暴行によつて生じたものであることが明らかであり、右暴行についてまで同被告人が共謀していたとの証明はないから、同被告人は右各傷害について罪責を負ういわれはない。しかし、医師三好栄三郎作成の診断書および押収してある診療録(昭和五四年押第三六三号の1)によれば、同人はほかに判示のとおりの傷害を負つていたことが認められ、これらは本件現場において、同被告人らによる足げりなどの暴行によつて生じたと認めるのが相当であるから、判示のとおり認定した。

六  判示第六の事実(大藪公会堂事件)について

被告人坂本修一が判示第六の一記載の日時、場所において、判示吉井誠一に対し手拳で顔面を殴打し、同二記載の日時、場所において、吉井誠に対し平手で顔面を殴打し、被告人坂本逸雄が判示第六の二記載の日時、場所において、吉井誠一および吉井誠に対しいずれも平手で顔面を殴打するなどして、判示各犯行に加功したことは、前掲各証拠により明らかである。右吉井誠一(公判調書)および吉井誠(検察官に対する供述調書)は、被告人両名の言動を含め前記暴行を受けた状況についていずれも具体的に供述しており、右各供述は、暴行の細かな態様、順序等につき若干不鮮明ないし混乱した部分や喰い違いはあるものの、大要においてほぼ一貫し、判示第六の二の事実については、同一機会に前示の暴行を受けたとする右両名の各供述が、おおむね一致していることからしても、十分これを信用することができる。

被告人らは、判示現場において、被告人らはもとより他の同盟員らも吉井誠一および吉井誠に対し暴行を加えたことがない旨否認し、吉井誠一の上口唇の傷は、公会堂での同人らに対する糾弾の場において、同人の言動に激こうした同盟員らが前に押しかけた際、そのはずみで吉井誠一が手にしていたマイクで口のあたりを切つたものではないかと弁解する。

しかし、吉井誠は、大藪公会堂に入つて誠一に話しかけたとき、同人の唇および目のあたりに血がにじみ、右頬が少し腫れているのを見た旨供述しており、また、関係各証拠によれば、右両名は、本件終了後程無く当時の養父町長小野山浅夫に対し、同盟員らから殴られたと訴えていること、右両名は、同町長の指示により八鹿病院において医師の診察を受け、診断書も作成されていることが認められ、これらは、判示現場において傷害の程度はともかく暴行があつたことを窺わせる有力な資料であり、また、吉井誠一が口のあたりを切つたのは、同盟員らが吉井らの方に詰め寄る以前であることが認められるから、右弁解は、信用できない。

(なお、弁護人らは、被告人らが多少の有形力を行使したとしても、可罰的違法性がない旨主張するが、前認定の本件の犯行態様からすれば、弁護人らの主張する本件背景事情等諸般の事情を考慮しても、被告人らの行為は社会的に相当と認められる範囲を超えており、可罰的評価に値しないとは到底いえない。)

七  判示第七の事実(八鹿高校事件)について

別表(四)(五)記載の片山正敏など四七名の八鹿高校教諭らが多数の共斗会議構成員(解放同盟員ら)によつて、その意に反して立脇履物店前から八鹿高校まで連行された後同所において監禁され、さらに右履物店前路上および八鹿高校において暴行を受け、うち右片山など四三名が負傷するに至り、また同人ら二九名がその意に反して自己批判書を作成させられたという判示第七の一の事実が認められることは証拠上明らかである。ただ、弁護人から、右犯行のうち、逮捕監禁罪、強要罪につき、各罪の構成要件に該当しない旨の主張がなされているので、当裁判所のこの点に関する判断をまず略記する。

(一)弁護人は、逮捕罪に関し、被害者のうち徒歩で学校へ戻つた二二名の同校教諭らおよび起訴の対象となつていない教諭ら十数名の大部分は任意に学校へ戻つたものであり、この者らについては、そもそも逮捕行為は存在しない、と主張する。しかしながら、右二二名の同校教諭らを含む判示被害者らはいずれも集団下校を阻止されて判示履物店前に座りこんだ際、判示の暴行を受け、更に別表(五)「逮捕の状況」欄記載のとおり強制的に学校へ連行されたもので、途中、たとえば、弁護人指摘の藤井千賀子のごとく、腕をとるという直接的な強制はなくなつた者についても共斗会議構成員が横に立つなどの状況は存在し、連行全体を通じ行動の自由が侵害されていたと認められる。また、起訴の対象とされていない教諭らがどのような状況で学校へ戻つたかは証拠上不分明であるうえ、この者らが仮に任意に学校へ戻つたとしても、このことの故に判示被害者らに対する逮捕が存在しないとはいえないので、弁護人の右主張は採用できない。

次に、弁護人は、監禁罪に関し、第二体育館など判示各部屋の出入口を施錠するなどして物理的に脱出を不可能にした事情がないこと、被害者内田誠、水垣淸之のごとく自由に校外へ出ることを認められていた者がいること、校内において教諭らは用便のため自由に各部屋に出入りしていること、教諭らが退出を求めて妨害されたり積極的に脱出を図つたこともないなどの事情をあげて、監禁罪には該当しない、と主張する。

しかし、前掲各証拠によれば、第二体育館に連行された被害者らは、被告人丸尾の指示により(後述)一人一人ばらばらにされて、多数の共斗会議構成員に取り囲まれて糾弾を受け、その後の本館二階会議室、解放研部室における糾弾の際も同様な状況下にあつたこと、右糾弾会場間の移動その他用便のため被害者らが移動する際は共斗会議構成員がこれに付き添いあるいはその看視を受けていたこと、休養室においても後述のとおり被告人安井義隆が在室の被害者を看視していたこと、一方、八鹿高校の正門、通用門などには共斗会議構成員が多数詰めて同校への出入を制限していたこと、また右正門付近その他室内外にも多数の共斗会議構成員がたむろし、最終の第一体育館における総括糾弾会の際は被害者らを並ばせその前に大勢の共斗会議構成員が詰めかけていたことが認められ、これらの状況からすると、本件では、たとえ弁護人主張のごとく各部屋の出入口を施錠するなどの物理的状況はなくとも、まさに多数人の包囲と威圧によつて被害者らが任意に校外に退出することは著しく困難であつたといわなければならない。なるほど被害者内田誠、水垣淸之らは妨害を受けることなく校外に退出しているが、八木川集会(後述)出席のための校外への退出は元々同所にいる同校生徒達をなだめる目的という共斗会議側の利にかなつたものであるから妨害を受けないで校外へ出ることは当然であるし(ただし、弁護人主張のごとく八木川集会に出席した後は、心理的拘束はともかく行動の自由は回復していると見る余地があるので、右両名については校外退出までの監禁罪しか成立しないと解しての認定である。)、右内田が自宅に帰るため校外へ退出した際は、後記のとおり、被告人安井義隆の名前を書いた“外出許可証”を携帯していたため妨害を受けることなく校外に退出しえた事情がある。

元々被害者らにとつて八鹿高校はその職場ではあるが、前認定のとおり、被害者らは解放同盟の糾弾を避けて当日集団下校したものである。その被害者らが激しい糾弾を受けながら同校に留つたこと自体が、自由意志によつて校外に脱出できない状況の存在を物語るに十分であり、同人らが説得を受けて任意に同所に留つたということは、同人らが積極的に退出を求めあるいは脱出を図つた事実がないにせよ、到底認定できないところである。

次に、弁護人は、自己批判書の作成状況、内容などに照らし、自己批判書は教諭らが任意に作成したものであるから強要罪は成立しないと主張する。しかしながら、自己批判書を作成した片山など判示の二九名の被害者は、いずれも別表(四)記載(「暴行の態様―第二現場欄」)のとおり、第二体育館、会議室または解放研部室において暴行を受け、畏怖、困惑した状態に乗じて自己批判書の作成を求められ、結局、その意に反してこれを作成したと認められる。作成時そのものには暴行や脅迫が存しなかつた場合(たとえば、弁護人指摘の被害者栂井、藤井、土野、山内など)でも、前に加えられた暴行に畏怖して作成したという側面が存する限り、強要罪に該当するといわなければならない。また、自己批判書の内容は、表現の強弱、文章の長短はあるにせよ、結局判示のとおり、解放研の生徒と話し合わなかつたことを反省し、八鹿高校の同和教育が誤つていたことを認める趣旨のものであつて、つまりは解放研生徒の前記「三項目要求」を受け入れることに帰し、自己批判書は従前の経緯に照らし教諭らが任意には書きえないことを内容とするから、弁護人主張のように、その内容から任意に作成したとは到底推認しえないものである。もつとも、被害者らの中には、自己批判書の内容の一部は当時の心情をそのまま書いたとする者(たとえば、被害者宮谷、福田、内田など)が存するが、右の事情は自己批判書全体が強要されたものであることの妨げにならないし、内容そのものは自分の気持に合致する(たとえば、被害者田中の場合)としても、作成自体が暴行によつて強要された以上、同罪の成立を妨げないと解される。

(二)本件で最も問題となるのは、右判示第七の一の各犯行および判示第七の三の犯行(以下、本項において「本件各犯行」という。)に関し、被告人丸尾ら関係被告人が刑事責任を負うか否かであるので、次に、この点についての(被告人植村の判示第七の二の犯行の刑事責任についても併せて)当裁判所の判断を付記する。

本件各犯行は、多数の者が集団で多数の被害者に対し、長時間にわたりかつ場所を異にして犯したものであるが、事前の謀議、計画に基づくものとは認められない。このような場合どの範囲の者が共犯としての刑事責任を負うかを画定することは困難な問題である(たとえば糾弾には参加したが、暴行を制止した共斗会議構成員が一方で相当数存したことも弁護人指摘のとおりである。)。しかし、問題は丸尾以下関係被告人が本件各犯行を実行したかあるいは共謀したかに尽きるわけであり、本件各犯行の実行を担当したと認められる者は、他の共犯者との黙示の意思連絡は容易に肯認できるから(犯行状況からして、実行の際他の共犯者の犯行を認識、認容していることが推認され、また共犯者間に順次同様な関係が連鎖的に成立している。)、本件各犯行全体について刑事責任を負うものと解される。実行していない者については、各種の事情を基礎として共謀の有無を解明することになるのはもとよりである。

1被告人丸尾の刑事責任

被告人丸尾の行動に関しては、前記認定(本件の経緯の項)のほか、前掲各証拠によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 本件犯行当日午前一〇時ころ、判示立脇履物店前において、いわゆる解放車の上からマイクで、共斗会議構成員多数に対し、前述のとおりスクラムを組んで座りこんでいた同校教諭らを、四人一組になつてごぼう抜きにし、学校(体育館)へ連れ帰えるよう指示した。なお、右指示をきつかけに同校教諭らに判示(第七の三を含む)の暴行が加えられ、また判示の逮捕が開始された。

(2) 同校教諭らが共斗会議構成員によつて判示のとおり八鹿高校に連れ戻された後、被告人丸尾自身も解放車で八鹿高校に戻り、同校第二体育館に入つて、同体育館に連行されて奥の方にかたまつていた同校教諭らを「一人一人ばらばらにして糾弾せよ」と共斗会議構成員に指示した。

(3) 約一〇分間程度体育館に留つて糾弾を見廻つた後、体育館を出て山本佐造と一緒に廊下を歩いている際山崎剛生(当時学生自治会役員)とすれ違い、同人から「暴力はやめてくれ」と言われたが、「もう、おそい」という態度を示して相手にしなかつた。

(4) 午前中はほぼ同校校長室のソファーの上で休養し、その間救急車の手配、被害者らの入院を指示し、あるいは話し合いに応じる教諭らは同校本館二階で糾弾する手はずを山本佐造と打ち合わせ、また共斗会議構成員安井吉成に統制をとることを伝達させ、被告人坂本逸雄に同体育館の見廻りを依頼したりなどした。

(5) 同日午後二時ころ、同校近くの八木川河原で同校生徒有志七〇〇ないし八〇〇名が暴力非難のデモ行進を予定して集会していたので、これを阻止すべく説得にかけつけ、生徒から暴力は振わないという約束に反したではないかと追求された際、「暴力は仕方がなかつた」と述べた。

(6) その後(午後五時ないし六時ころと推認される)同校本館二階会議室、解放研部室などの糾弾会場を見廻り、会議室においては糾弾を受けていた被害者橘謙に対し「お前、けがをしておるな、早く楽になれ」と申し向け、解放研部室においては同様の片山正敏に対し「何じゃ、がたがた震えているじやないか」などと声をかけている。

(7) 同日午後九時三〇分ころ、同校本館前広場で開かれていた共斗会議主催の定例抗議集会で演説した後、機動隊の突入に備えて各門のピケを指示した。

(8) 山口冨造(当時解放同盟兵庫県連合会書記長)らと相談のうえ、いわゆる総括糾弾会を計画し、同日午後一〇時ころから一一時ころまでの間、同校第一体育館において右集会が開催された際は、その進行を指揮し、判示自己批判書を振りかざして前記片山らにこれが自由意志で書かれたものである旨の確認をせまり、右集会終了後は、右片山らを職員室へ連れて行つて解放することを指示した。

なお、被害者木村次雄が右集会のため共斗会議構成員によつて第一体育館に連行されてきた際、右構成員に対し「体育館の中へ入れておけ」と命じている。

本件の経緯の項で認定した、被告人丸尾に関する諸事情に以上認定の諸事実を併せて考えると、被告人丸尾が本件各犯行につき、共同正犯としての刑事責任を負うことは明らかというべきである。すなわち、

(1) 被告人丸尾が、ハンガーストライキをしている解放研生徒の健康状態を考慮し、連休の前日である一一月二二日中には同校教諭らと解放研生徒が話し合う機会をつかみなんとか事態を収拾したいと決意していたことは、前認定のとおりである。そしてこの目的を達するためには、同日中に教諭らが自己批判をして解放研生徒の要求(前記「三項目要求」)を受け入れる状態を招来するのが最も望ましいわけであり(そうなればハンガーストライキは目的を達したとして中止できる。)、当然の前提として同日中教諭らが在校していることが必要である。また、そこまでの状態は望めぬまでも話し合いのきつかけを作るには同様に教諭らが同日在校している必要がある。被告人丸尾が、前認定のとおり、教諭らの集団下校を必死になつて阻止しようとし、あるいは学校へ連れ戻すことを指示したのは同被告人の右の決意のしからしむるところと考えられる(同被告人は、教諭らが集団休校する事態さえおそれ、前記集会への動員も隠密裡にせよとの指示すらしているのである。)。

また、解放研の設置に終始反対し、かつ解放研生徒との話し合いはもとより解放同盟の糾弾を拒否している同校教諭らが、同日中ににわかに態度を変えて自ら自己批判し、解放研生徒の要求を受け入れるかもしくはこれと話し合う態度を示すというのはすこぶる招来しにくい事態であるから、同被告人が、八鹿高校の管理職や県教育委員会の働きかけに期待しつつも、それが不成功のときには解放同盟員多衆の助けを借りて事態を収拾しようと秘かに考えていたことも、同被告人の前記決意からして当然の心情として推認できる(このことは、前記のとおり、同被告人が、共斗会議主催の夜の定例抗議集会と別個に、同日午前一〇時町民ホールに南但各支部の解放同盟員五〇〇人程度を集めるよう指示し、情況によつては右集会の参加者を校内に移動することを考えていた事実からも窺い知ることができる。右の集会が、県教育委員会の解決へ向けての作業の「監視」、あるいは「情勢を見守る」目的につきるものではないことは明らかである。)。

八鹿高校教諭らが同日中在校して解放研生徒と話し合う態度を示してくれることを望んでいた被告人丸尾の心情(企図)は、正に右目的のためなされた本件各犯行につき、元々同被告人が他の共犯者と意思相通じる素地を提供するものである。

(2) 被告人丸尾が、本件当日の共斗会議構成員の行動全般につき指揮をとつていたことは、共斗会議議長としての立場上当然であるし、前認定の同被告人の具体的な言動(立脇履物店前において教諭らの連行を指示したこと、第二体育館において糾弾の方式を指示したこと、本館二階で糾弾する手はずをととのえ、糾弾状況を見廻り、いわゆる総括糾弾会を計画、進行させたことなど)に照らしても明らかである。そして、同被告人は、右の地位に基づき、本件各犯行のうち、ある部分については明示にこれを指揮(支配)し、ある部分については流れにまかせて、結局自己の前記企図を実現している。

すなわち、同被告人は、前認定のとおり、教諭らの集団下校を自ら阻止しつつ立脇履物店前に至り、学校へ戻ることを拒否してその場にスクラムを組んで座りこんだ被害者らを、四人一組で―ごぼう抜きにして―学校へ連れ帰ることを指示しているが(同被告人が右のような指示をした事実は、相被告人石田や弁護人側証人安井吉成ですら認めるところである。)、右は逮捕の指揮と解されるばかりか第一現場における有形力行使についての被告人丸尾の意思を推認させるものとしても重要である。というのは、元々解放同盟に同調せずその糾弾をのがれるため集団下校し学校へ戻ることを拒否してその場にスクラムを組んで座りこんだ八鹿高校教諭らを学校へ連れ戻せ―ごぼう抜きにしてでも―という以上は、この指示を受けた者が連行に際して大なり小なり有形力を行使するに至ることは見易すい道理であり(現に、この指示をきつかけにして、関係被告人を含む共斗会議構成員によつて判示の暴行や逮捕行為がなされていること前認定のとおりである。)、それ故、この指示は、被告人丸尾が第一現場における他の者の有形力行使につき認識、認容していたことを示すばかりでなく、これを指揮して有形力を行使させたとも評価できるものである(なお、第一現場における有形力の行使を同被告人が認容していたことは、前認定のとおり、同被告人が、学校へ戻つて山崎生徒会役員と廊下ですれ違い、同人から「暴力はやめてくれ」と言われた際「もう、おそい」という態度を示したこと、前記八木川集会で「暴力は仕方がなかつた」趣旨の発言をしていることからも窺い知れる。)。

また、第二現場における監禁についても、被告人丸尾は、被害者の入院に“許可”を与え(米村証言参照)、前認定のとおり、機動隊の突入に備えて各門のピケットを指示し、いわゆる総括糾弾会のため被害者を第一体育館に入れることや終了後被害者らの解放をそれぞれ指示する(被害者らは、現に右指示に基づき総括糾弾会に列席させられ、その終了後職員室で行動の自由を回復した。)などしてこれを指揮している。

第二現場における糾弾の際の有形力行使(強要罪の手段としての暴行)について同被告人が明示にこれを指揮したと認むべき証拠はない。むしろ、これにつき同被告人は認識すらなかつたというのが弁護人の主張である。しかし、第二現場に至るまでに有形力の行使があつて負傷者が出たことを知つている同被告人としては(この点は同被告人も認めている。)、集団下校に立腹した解放同盟員らが糾弾に応じない被害者らに対し勢のおもむくまま、第二現場においても同様な有形力の行使をする事態の発生を推知していたと認めるのが、むしろ自然である。

また、第二現場における有形力の行使は、多数人から多数の被害者に対し、長時間にわたり、広範囲の場所において、かつ、相当激しく加えられたものである。かかる大規模な不祥事態の発生を当日の最高責任者である同被告人が、たとえ校長室で休養していた時間が長かつたにせよ、同一校舎内にいて全く認識していなかつたとするのはむしろ奇異というべきであろう。現に、救急車は何回か出入しているし(山本佐造も救急車の出入で負傷者の出たことが判つたという。)、校長室隣の応接室には負傷者(別表(二)番号32ないし38、40の被害者ら)が入院を待つており被告人丸尾は同室をのぞいて五、六人の教諭らが毛布を着て寝ているのを見ているのである。さらに、同被告人が、前記のとおり、本館二階の糾弾状況を見廻つた際、被害者橘が負傷し、片山が水にぬれている状態を現認している。

これらの諸事実からすると、被告人丸尾が第二現場における糾弾の際の有形力の行使(強要罪の手段としての暴行)を認識していたと認めるのが相当である。

結局、被告人丸尾は、糾弾の際有形力が行使されつつあることを認識し、かつこれを阻止することができた立場にあつたにもかかわらず、放置して監禁および糾弾を継続させ(前認定の、山崎に対して示した被告人丸尾の「もう、おそい」という態度からは、事態の流れを止める気のない同被告人の心情も窺える。)、被害者らに自己批判をさせて解放研の生徒の要求に沿う書面を作成せしめるという企図を実現したものである。右は、いわば他人の(実行正犯者の)行為を不作為によつて指揮(支配)したものといえよう。

(3) 被告人丸尾の本件各犯行についての刑事責任(共同正犯の成否)を画定するにあたつては、前記諸点のほか、自己批判書を作成させることは糾弾会の通例であることを認識し(なお、他の被告人も共通の認識であるから、この点は暗黙に意思相通じていたと認められる。)、被害者橘に前判示の言を申し向けて、暗にこれを勧めている事実を考慮することができる。

(4) 以上判示の、被告人丸尾の企図、本件各犯行を含む当日の行動への指揮(支配)、および実行行為の一部と目すべき行為を自らなしていることなどを総合して考えると被告人丸尾は他の共犯者と共謀して本件各犯行を犯した責任を免れないというべきである。

2被告人石田の刑事責任

被告人石田の行動に関しては、前掲各証拠によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 立脇履物店前において、被告人丸尾の前記指示(前項1の(1))に基づき、スクラムを組んでいる教諭の腕を数回手拳で殴打し、同人をスクラムから引き離して他の共斗会議構成員とともに両脇から腕をかかえてマイクロバスまで連行し、同人をこれに乗車させ、自らもこれに乗車して八鹿高校正門付近に至り、同所で、他の共斗会議構成員とともに被害者吉田一孝など二名を右バスから降してそれぞれ両脇から腕をかかえ、同構成員らが作る人垣の中を通つて第二体育館へ連れこんだ。

(2) 第二体育館において、連行されてきていた教諭の一人を同体育館南角に連れて行つて座らせ、他の共斗会議構成員一〇名位とともに同人を取り囲んで糾弾した。他の者が同人を殴打、足げりした際、被告人石田は同人の肩をつかんで持つた。また、被害者片山を同様にしてとり囲んで糾弾したが、他の者が右片山を足げりにし、あるいは水をかけるなどの暴行を加えた際自らは同人の頭髪をつかんで二、三回引張つた。

同日午後一時三〇分ころ、同体育館を出て、体育館前で、被害者らの逃走を防ぐためのピケットに加つた。

(3) 前記八木川集会から戻つた後は、会議室における糾弾に参加し、被害者らに自己批判書を作成させたりし、最終的には、総括糾弾会に出席した。

以上認定の事実によれば、被告人石田は、被害者らの逮捕監禁に自ら加担したのはもとより、第一、第二双方の現場で他の共斗会議構成員とともに被害者らに暴行を加え、さらに自己批判書の作成にも関与していることが明らかであるから、同被告人は本件各犯行につきいずれも(実行)共同正犯の刑事責任を負うべきである。

3被告人尾﨑龍の刑事責任

被告人尾﨑龍の行動に関しては、前掲各証拠によれば次の事実を認めることができる。

(1) 立脇履物店前において、被告人丸尾の前記指示(1の(1))に基づき、教諭らを学校へ連行するため、教諭らに対し「学校へ戻らんか、このガキら」などとどなりつけその腕を引張り、スクラムを組んでいる腕と腕の間に足をねじこみ、あるいは手の指を反りまけるなどしてスクラムをはずした(なお、同所で同被告人が被害者福本慎三を足でけつたとの点は認定していない。)。

(2) 共斗会議構成員が教諭らを第二体育館へ連行するのを見て、同日午前一一時ころから自らも同体育館に入り、糾弾に加つたが、その際被害者土野浩二を他の共斗会議構成員とともに取り囲んで、同人の両耳を両手でつかんで上下左右に強く引張つた。

(3) 第二体育館を出てから正門付近で被告人尾崎文雄ら共斗会議構成員と待機した後、午後三時半ころ、会議室に入り、糾弾に加つたが、その際他の共斗会議構成員とともに教諭を取り囲み、その耳元でどなりつけ、かたわらの机を手拳でたたくなどし、また、被害者の一人(女性)に対して、自己批判書の作成を強要した。

(4) 最終的には、総括糾弾会に出席し、被告人丸尾の指示によりハンガーストライキをしていた解放研生徒を会場に迎えにいくなどした。

以上認定の事実によれば、被告人尾﨑龍は、被告人石田について述べたと同一の理由で、本件各犯行につきいずれも(実行)共同正犯としての刑事責任を負うことは明らかである。

4被告人尾崎文雄の刑事責任

被告人尾崎文雄の行動に関しては、前掲各証拠によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 被告人尾崎文雄は、教諭らの集団下校を聞き知り、八鹿高校を出て立脇履物店に至る馬橋付近まで様子を見に来たところ、共斗会議構成員が三、四人の教諭らを連行するのを目撃し、「二人でかかつたのでは、逃げられるぞ」と声をかけ、その後、同校正門付近へ引き返した。このころは連行の最終時期で大勢の共斗会議構成員が引き上げてくる状況にあつた。

(2) その後、同校正門付近で被告人尾﨑龍ら約五〇名位の者とともに待機し正門を固めた(なお、中途何回か喫茶店に行つている。)。

(3) 午後から三〇分程度第二体育館に入り糾弾に加つたが、その際、被害者らに対し詰めより、肩をつかみ、あるいは髪の毛をつかんでゆするなどしたが、被害者土野浩二に対しては、その腹部を土足でけり上げ、さらにその背中、頭、尻などをけりつけた。

(4) 午後八時ころには会議室で一人の教諭を他の共斗会議構成員とともに取り囲んでどなりつけ、自己批判書の作成を強要した。

以上認定の事実により被告人尾崎文雄の共同正犯としての刑事責任を検討すると以下のとおりである。

(1) 同被告人が現場(馬橋付近)に着いた時期は、前認定のとおり立脇履物店前における犯行がほぼ終了した段階(教諭らが連行される最終時期)である。したがつて同被告人は立脇履物店前の暴行に加つていないし、逮捕行為の実行もない(同被告人が立脇履物店前にいたとする田畑証言は採用しがたい。)。ただ、馬橋付近で他の者の逮捕行為を現認して前認定のとおり声をかけてから学校へ戻つたにすぎない。学校へ戻つてからは各犯行に加功していること後記のとおりであるから、第一現場における暴行(傷害)および逮捕に関しては承継的共同正犯の成否が問題となる。この点で、同被告人は、三、四人の教諭が無理矢理つれ戻されている状況や衣服が乱れている状態を認識したうえ、後の犯行に加功しているのであつて、第一現場における犯行の概要を認識ないし推知して後の犯行に加つたといいうるから第一現場における犯行を原則として承継する(第一現場においてのみ受傷したことが明らかな被害者の傷害の結果は、承継しないことおよび判示第七の三に対応する公訴事実につき刑事責任を負わないことにつき、後記「無罪部分の判断」の項参照。)。

(2) 第二現場における各犯行については、同被告人に共同正犯の刑事責任が認められることは明らかである。すなわち、同被告人は、前認定のとおり当日の大半を正門付近で過しているが、これは同被告人が他の多数の共斗会議構成員とともに同所に待機して同校内への出入りを制限する役割を果したこと、すなわち監禁の一手段を担当したことを意味する(本人もまた、解放同盟澤支部の者が正門を固める、と認識していた。)。しかも、この間救急車の出入りによつて激しい糾弾が行なわれていたことを知つていたのである。そして、午後からは自ら第二体育館あるいは会議室での糾弾に参加し、被害者らを取り囲んで、暴行を加え、あるいは自己批判書の作成を強要していること前記のとおりである。

してみると第二現場における各犯行について同被告人は(実行)共同正犯としての刑事責任を免れがたい。

5被告人安井千明の刑事責任

被告人安井千明の行動に関しては、前掲各証拠によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 立脇履物店前において、座りこんでいた教諭らに対し学校へ戻るよう説得するなどした後、教諭の一人を前記安井吉成とともに肩をだいてひきずるようにしてトラックまで連行し、あるいは連行途中の被害者米村正徳の腹部を手拳で殴打し、その顔面を平手で数回殴打する暴行を加え、また、連行のためマイクロバスに乗せられていた被害者平松美世子に対し、バスの外から同女の髪の毛をつかんで頭部を隣席の福本慎三の膝に打ちつけるなどした。

(2) 学校に戻つてからは、第二体育館において、二、三名の教諭を糾弾し、すぶぬれになつて座つている教諭の背中をけり、午後会議室において何人かの教諭を糾弾し、二、三名の者に自己批判書の作成を求め、被害者藤井千賀子に対しては、その作成した自己批判書に付加を求め、解放研部室においては、共斗会議構成員に取り囲まれていた被害者小林千尋に対し、被告人安井義隆ともども自己批判書の作成を強要し、また、被告人植村と交替して被害者山田宗之に自己批判書の作成を求めた。

なお、最終的には総括糾弾会に出席した。

以上認定の事実によれば、被告人安井千明は、被告人石田、同尾﨑龍について述べたと同一の理由で、本件各犯行につき、いずれも(実行)共同正犯としての刑事責任を負うことは明らかである。

6被告人安井辰雄の刑事責任

被告人安井辰雄の行動に関しては、前掲各証拠によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 被告人安井辰雄は、立脇履物店前に座りこんでいた教諭らに対し学校へ戻るよう求め、他の共斗会議構成員が教諭らをごぼう抜きにして連行するのを見て、警察官がこれを妨害しないよう腕を広げて警察官の接近を阻み、あるいは自ら他の共斗会議構成員とともに被害者井上堅の足を持つて引きずり途中田村自転車店前路上において同人の顔面を手拳で四、五回殴打するなどした。

(2) その後同校第二体育館に入り、被害者らを糾弾したが、その際被害者藤井千賀子の頭髪をつかんで顔を引き起し、平手で顔を四、五回殴打し、また、被害者木俣進を取り囲んでいる者に対し、水をかけることを指示し、同人を体育館中央にひきずり出し、足払いをかけて倒すなどの暴行を加えた。

(3) 午後八時ころ、会議室に入つて糾弾に加わり、被害者栂井逸郎を数名の共斗会議構成員とともに取り囲み、自己批判書の作成を強要し、作成させた。

最終的には総括糾弾会に出席している。

以上認定の事実によれば、被告人安井辰雄は、被告人石田、同尾﨑龍、同安井千明について述べたと同一の理由で、本件各犯行につきいずれも(実行)共同正犯としての刑事責任を負うことは明らかである(なお、同被告人が午後四時半ころから七時ころまでの間校外に出ていたことは、弁護人指摘のごとく、認められるが、帰校後再び犯行に加つていること前認定のとおりであつて、校外にいた間も完全に犯意を放棄したことは認められず、その間の犯行についても共謀責任を免れない。)

7被告人安井義隆の刑事責任

被告人安井義隆の行動に関しては、前記認定(本件の経過の項)のほか、前掲各証拠によれば次の事実を認めることができる。

(1) 被告人安井義隆は、立脇履物店前において、座りこんでいる二、三人の教諭らの腕を引張つて立たせ、これを他の共斗会議構成員に連行させた。

(2) 教諭らがほとんど学校へ連れ戻された後、自らも学校へ行き、第二体育館に入り、被害者高野敢を糾弾し、あるいは他の共斗会議構成員の糾弾を見廻つた。

(3) 午後は、総括糾弾会までほとんど休養室にいたが、同室での行動には次のようなものがある。

(イ) 他の共斗会議構成員が被害者らに作成させた自己批判書を持つて同室へ来ると、これを点検して受取り、またはこれに付加を求めるよう指示し、あるいは自ら被害者(前川貫治、内田誠など)に付加を求めた。いわば、自己批判書のとりまとめ役をした。

(ロ) 同室にいる被害者らの見張りをし、被害者らが室外へ出る際は“許可”を与えた。たとえば、被害者内田誠が校外へ出るときには自己の名前を書いた“外出許可書”を渡し、同栂井逸郎が事務室から自宅に電話することを許し、同太田垣哲郎が入院することを認めて救急車の手配を指示したなどである。

(ハ) 同室にいる被害者らに「こんなことしたくてしているわけではない」という趣旨の話をし、事態の説明をしている。

(4) 休養室以外の場所での行動には次のようなものがある。

(イ) 会議室において西村教諭に自己批判書の書き方を教え、同室内の糾弾を見守り、後、被害者らが共斗会議構成員から暴行を受けている状況を認識しながら、その場にいた者に「徹底的に糾弾せい」と指示した。

(ロ) 解放研部室において、被害者長坂護城などを糾弾し、後、廊下にいた被害者小林千尋が未だ自己批判書を作成していないことを理由に同室へ連れ戻すことを指示したうえ、被告人安井千明とともに同人にその作成を求めた。

(5) 総括糾弾会に出席して自己が保管していた自己批判書をまとめて被告人丸尾に渡した。

本件の経緯の項で認定した、被告人安井義隆に関する諸事情に以上認定の諸事実を伴せて考えると、被告人安井義隆が本件各犯行につき、共同正犯としての刑事責任を負うことは明らか、というべきである。すなわち、

(1) 同被告人は、南但支連協青年部部長兼青年行動隊長として本件までにいくつかの事件に関与し(前記元津、橋本事件など)、被告人丸尾を補佐して解放同盟員を指揮し、確認会、糾弾会を実施するなど重要な役割を果してきた。本件紛争についても十分な知識があり一一月一六日以降これに関与し、被告人丸尾同様一一月二二日中にはどうしても決着をつけたいと考えていたことは、前認定のとおりである。

(2) 同被告人は、立脇履物店前において、前認定のとおり座りこんでいる教諭らの腕を引張つて立たせ、これを他の構成員に連行させているから、第一現場における逮捕および有形力の行使(暴行―侵害)については、実行共同正犯というべきである。第二現場における監禁についても犯意および実行行為は明らかである。休養室に閉じこめられた被害者らを看視するなどの前記行動は被害者らが自由に校外へ退出することを困難ならしめていること前判示のとおりである。

(3) また、同被告人が自己批判書の作成に中心的な役割を果したことも前記諸事実から認められるところである。しかし、第二現場における糾弾の際の有形力の行使(強要罪の手段としての暴行)について同被告人が自ら実行したと認むべき証拠はない。この点については被告人丸尾同様もつぱら共謀の有無が問題である。

(4) 被告人安井義隆が、糾弾の際有形力が行使されている事実を認識していたことは、同被告人が、前認定のとおり、第二体育館、会議室、解放研部室の糾弾状況を現認していること、休養室に長時間いて水をかけられた者や負傷者を見ていることから推認されよう。同被告人は、前認定のとおり、会議室において、暴行を伴なう糾弾を現認しながら、「徹底的に糾弾せい」とあたかも暴行を助長させる言葉を述べている。同被告人の右の言葉は、当日中にはどうしても決着をつけたいという当時の気持(前記(1))から発せられたものと考えられるが、糾弾の際の暴行が自分のための犯罪でもあることを示している。同被告人は、このような認識、認容に立ちながら、暴行のため畏怖した被害者らに自己批判書の作成を求めあるいはこれをとりまとめているのであるから、結局糾弾の際の暴行(傷害)についても共謀の存在は否定しがたい。そうすると、同被告人は、本件各犯行につき、(実行ないし共謀)共同正犯としての刑事責任を負うことになる。

8被告人坂本逸雄の刑事責任

被告人坂本逸雄の行動に関しては、前掲各証拠によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 立脇履物店前において、被告人丸尾の前記指示(1の(1))の後「ごぼう抜きだ」などとどなり、スクラムを組んで座りこんでいる被害者の一人を足でけり、あるいは隣りにいた者からハンドマイクをとり上げてボリュウムをあげ「お前らそれでも教師か」などと罵声をあびせ、また右マイクの台尻で被害者森田剛を数回殴打し、さらに右マイクで「かかれ」などと叫んで現場にいた共斗会議構成員を指揮した。

(2) 八鹿高校に戻り校長室ないし隣の応接室にいたが、被告人丸尾から依頼されて第二体育館の糾弾状況を見廻り、その際、被害者林総介に水をかけるなどの暴行を加えている共斗会議構成員に対し「こいつは落ちんぞ、ようかわいがつてやれ」と声をかけ、また、同様に被害者森田剛を取り囲んで暴行を加えている者に対し「こいつは森田ちゆう奴で、わしの娘が断食しているのに笑つていた、しぶとい奴だぞ」と声をかけ、同人が作成した自己批判書を見て「全然なつとらん」などと言い、あるいは被害者稲津健輔が共斗会議構成員に取り囲まれて暴行を受けている際同人の耳を力一杯引張り、耳に口を押しあてて「話し合いに応じよ」「それでも教員か」などと大声でどなり、さらに被害者片山正敏の前に出てきて「うちの娘がハンストして死にかかつているのにもよくも逃げたな」などと言つてつばをはくしぐさをした。

(3) その後、八木川で集会していた八鹿高校生徒の代表山崎剛生らが校内の様子を見に来た際右代表と会いこれを引き留め(なお、右代表が各糾弾会場を現実に見る前に、山本佐造が各糾弾会場を廻つて「今、生徒が来るから、暴力やめよ」と指示している。)、また自らも八木川集会にでかけて生徒をなだめる演説をしている。

最終的には、総括糾弾会に出席した。

以上認定の事実によれば、被告人坂本逸雄は、被告人石田、同尾崎龍、同安井千明、同安井辰雄について述べたと同一の理由で、本件各犯行につきいずれも(実行)共同正犯としての刑事責任を負うことは明らかである。

9被告人植村勝美の刑事責任

被告人植村の行動に関しては、前掲各証拠によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 被告人植村は、解放同盟下網場支部の呼びかけに応じて本件当日午前一一時過ぎころ八鹿高校に赴き、校長室へ寄るなどした後、おそくとも午前一一時三〇分ころには第二体育館に入つて糾弾に参加し、その際被害者田中暢が共斗会議構成員に水をかけられているとき傍に行つて同人の尻を土足で足げりし、さらに被害者小林千尋の顔を手拳で数回殴るなどの暴行を加えた。

(2) 第二体育館を出た後、解放研部室において糾弾に参加し、その際共斗会議構成員に取り囲まれている前記小林の頭髪を引張り、また被害者岡村清雄が他の共斗会議構成員から暴行を受けているときに同人に対し「俺は今までの男と違う、話し合わなければどうなるか判らん、話し合え」と脅迫し、被害者山田宗之に対し「はよ書いて帰つた方がええ」と自己批判書の作成を強要してこれを作成させ、休養室で被告人安井義隆に渡した。

(3) その後本館前で行なわれた抗議集会に出席して、最終的には総括糾弾会に出た。

以上の事実を認めることができる。

(1) ところで、被告人植村は、当公判廷において「八鹿高校へ行つたのは当日午後四時ころで、第二体育館には入つていない。当日昼から三時ころまでは霜沢政右衛門方に庭石を届けに行つていた。」旨の弁解をし、同被告人の弁護人も同旨の主張をしている。

しかし、同被告人の右供述およびこれに沿う霜沢証言は到底信用できず、同被告人は、前認定のとおり、おそくとも同日午前一一時三〇分ころには第二体育館に入つておりそのころから本件に加功したと判断するのが相当である。なぜなら、第一に、同被告人は捜査段階で午前一一時過ぎないし昼ころ八鹿高校に行つた旨ほぼ一貫して供述しており、右弁解は突如としてなされたものでたやすく措信できない。第二に、同被告人は第二体育館に入つたことも捜査段階で終始認めており、館内の状況に関する供述は具体的であつて証人田中暢、同小林千尋の各証言と併せ考えるとこの点は動かしがたいところであり、かつ、同被告人の供述にかかる、その時の第二体育館の状況(大勢の人がいたこと、三人の被害者がマット上に倒れていたことなど)からすると、同被告人が第二体育館に入つたのは、午後四時以降でないことを示していること。第三に、同被告人が第二体育館で田中、小林教諭に暴行を加えたことは同人らの証言によつて明らかであるが、この内、田中は午前一一時三〇分ころには第二体育館を出ているのである。

(2) 被告人植村は、前認定のとおり、本件に加功した後は、糾弾に加わり自ら暴行を加え、あるいは被害者を畏怖せしめて自己批判書の作成を強要しているから、(実行)共同正犯としての刑事責任を負うことは明らかである。

(3) 同被告人加功前の犯行につき、どこまで刑事責任を負うかは、承継的共同正犯の成否の問題である。この点に関し、同被告人の認識が重要であるが、同被告人が本件に加功した際(午前一一時三〇分ころ第二体育館に入つたとき)、被害者らが同所に監禁され、暴行を受けていたことは推知しえたと認められる。同被告人が認識した館内外の状況や付近の者の話(同被告人は「共産党の先生がやられている」と聞いている。)からして、右の程度の推知は当然であろう。しかし、被害者らが立脇履物店前で逮捕されて同所に連行されてきたこと、その際暴行を受けた事情を認識していたと認むべき証拠はない。そうすると、第二現場の犯行については承継的共同正犯が成立するが、第一現場の犯行については承継的共同正犯としての刑事責任を負わせることはできない。そこで同被告人に対しては、判示第七の二の事実の範囲内で有罪としたものである(無罪の部分については後記「無罪部分の判断」の項参照)。

第二  法律上の争点に対する判断

一  判示第一の事実(元津事件)について

(一)弁護人は、「元津における橋本など一〇名に対する糾弾(以下この項で「本件糾弾」という。)が仮に監禁罪の構成要件に該当するとしても、本件糾弾の背景事情、経過からして、その動機、目的は正当であり、その手段、方法も社会的相当性の範囲内にとどまつており、かつ当時の状況としてその場での糾弾はやむをえず他にとるべき方法はなかつたから、いまだ可罰的違法性はない。」旨主張する。そして右の背景事情、経緯などにつきつとに強調、指摘されている点は、「本件糾弾の対象となつた橋本は、解放同盟の行なつてきた確認会等を批判すると称して一連のビラを作成、配布してきたが、右のビラは、確認会等の実情につき虚偽の事実を記載しあるいは事実の一部を誇張ないし歪曲して伝え、確認会等が暴力的なものであることを強調することによつて部落解放同盟を中傷、誹諺するもので部落解放運動に敵対する差別キャンペーンというべきものである。橋本は解放同盟との話し合いを一切拒否し、また解放運動のための具体的な提言をなさず、本件直前にも同種のビラを元津で各戸配布したことに対し被告人丸尾らが抗議ないし阻止しようとしたことに端を発して、橋本および現場にいた橋本の支援者佐藤昌之などを糾弾したものである。」ということにある。

(二)橋本らが、解放同盟が当時行なつていた確認会等に批判的な態度をとり、昭和四九年七月から八月にかけて、そのやり方を非難するビラを作成、配布してきたこと、本件糾弾が、右のようなビラの配布を契機として行なわれるようになつたことは、いずれも前判示のとおりである。

ところで、解放同盟の運動方針ないし具体的活動に批判的立場の者が、その非を述べあるいはこれを文書にして広く住民に訴えること自体はもとより言論、表現の自由に属し、そのことの故に不利益を受けるいわれはない。とくに現代のように最終的な目的は共通にしつつもそこに至る具体的方策において考え方が多様に分化しうる時代には、互いに他の批判を許さないと独善になりついには運動自体が閉塞状況に落ち入るおそれがある。部落解放運動の理論においても種々の考え方が存在し必ずしも同一でないことは周知のとおりである。この点からいつて、解放同盟の方針ないし具体的活動を批判した文書を、直ちに、いわゆる差別文書と断じ、その作成、配布に関与した者を差別者として糾弾することは正当とはいいがたい。

しかし、他方、右の批判文書が、その内容、形式いかんによつては、批判の域を超え解放同盟を構成する被差別部落出身者への差別意識を助長することになりかねない場合があることにも留意すべきである。この点からいつて、右の批判文書の作成、配布にあたつては慎重な配慮が要求される。とくに、本件当時の南但地方は、前判示のとおり解放運動が急激に活性化したというもののいまだ緒についたばかりともいえ、一般には部落差別意識が根強く残存し、被差別部落出身者は逆に差別について鋭敏な感覚を有していたであろうことは容易に推認しえるところであつて、差別意識を助長する文書か否かについては、このような客観的条件をも考慮に入れて判断しなければならない。

(三)関係各証拠によれば、橋本が作成、配布に関与したことが明らかで、かつその内容が確認できるビラは、統一刷新但馬有志連ニュース一号(昭和四九年七月一八日付)、同二号(同月二九日付)、兵教組朝来支部発行の朝来支部報五号(同月二九日付)、同六号(同月三一日付)、同七号(同年八月一四日付)および日高有志連発行の「この世の生き地獄……」と題するもの、同「深夜強迫で『新聞折込』を中止させ……」と題するもの計七種であり、その内容を通観すれば、和田山中学校、生野小学校、朝来中学校の各確認会において、教諭の出席が強要されていること、糾弾の方法が苛酷で生命の危険すらあること、解放研の生徒がその先頭に立つていることなどを指摘し、解放同盟の行なう確認会を批判したものであることが認められる(ただし、朝来支部報七号は、生野小学校確認会の席上倒れた福井教諭の問題に関連して同支部が生野町教育委員会と交渉した経過を主として記載したもの、「深夜強迫で……」のビラは、解放同盟がビラの新聞折込みを中止させたことを非難したものである。)。右の内容のうち、糾弾の方法が苛酷であることを指摘し、解放同盟の行なう確認会等を批判する部分は、事実の把握や表現の形式が適切でないならば、批判の域を出て、読む者をしていたずらに確認会等に恐怖心を起させ、ひいては解放同盟や解放研を構成する被差別部落出身者に対する恐怖意識を刺激して、「被差別部落出身者は何をするかわからない」という差別意識を助長させることになりかねない。前掲ビラのうち、「この世の生き地獄……」のビラは、見出しとして大きく「この世の生き地獄『教師をリンチする朝来中学校内確認会』県連行動隊直轄下におかれた朝来中学校の実態は……」と記載されており、他にも「くりひろげられる地獄絵図」とか「教師を恐怖のどん底におとし入れ……」などの文言がみられる。朝来中学校の確認会(昭和四九年七月、八月)が相当のきびしさを帯有していたことは間違いないとしても、右の記載は、橋本が伝え聞いた確認会の情況を誇張して表現したものと認められる。もとより相対立する団体間の情宣活動としてのビラに多少の誇張ないし比喩が含まれることは常態であつてビラを読む者も表現どおりには受けとらないのが普通であるとしても、右の誇張はその程度を超え、あたかも解放同盟員や解放研生徒が朝来中学校の教諭に対し確認会の席上激しい暴力を加えているかのような印象を読む者に与えかねない(たとえば、「教師をリンチする……」の表現は単なる比喩をこえ具体的な事実として受けとられかねない。)。してみると、このビラは、解放同盟の行なう確認会等に対する批判に急なるのあまり、批判の域を出て、これに対する恐怖心をいたずらにおこさせ、ひいては解放同盟や解放研を構成する被差別部落出身者に対する恐怖意識を刺激し、差別意識を助長する結果をもたらすといわなければならず、また差別に鋭敏な感覚を有する被差別部落出身者にとつて差別文書と強く意識させるものである。したがつて、これを広く住民に配布しようとし、あるいはこのビラと「深夜強迫で『新聞折込』を中止させ『確認・糾弾会』をでつちあげた県連行動隊」という見出しのビラを一組にして配布した橋本の行為は適切を欠き、これを糾弾しようとした被告人丸尾らの行為は、その動機、目的において首肯できないものではない(ただし、監禁された他の九名については、いずれもこれらのビラの作成、配布に関与しておらず、単に、橋本救出のため現場に来たものにすぎないと認められるから、これらの者に対する糾弾は、直ちに正当とはいえず、可罰的違法性がない旨の主張は、すでにこの点で失当である。)。

(四)しかしながら、判示第一の犯行の手段、方法は、先に詳細に認定したとおり、朝方から夕方まで長時間にわたり公道上で被害者らを監禁し、その間の大半を立ちづくめの被害者らに対し、多数の者が一方的に激越な調子で判示の文言を肉声ないしハンドマイクのボリュームを上げて耳元でどなり、あるいは足をふむ、こづく、手拳を面前に突きつけるなどの有形力の行使をともなうものであつて、糾弾のためとしても社会的に相当と認められる範囲を超えている。また、右犯行の結果、一〇名にのぼる者の行動の自由が長時間侵害されたにとどまらず、被害者らは心身ともに疲労困憊し(現に、橋本が疲労のためテント内に倒れたことは前判示のとおりである。)、耳なりなどの障害が残つたというのであるから、被告人丸尾らの右行為によつて惹起された法益の侵害も決して軽微とはいいがたい。いわんや本件糾弾が真にやむをえず他にとるべき方法がなかつたとは到底認めがたい。

(五)要するに本件の具体的態様に徴すれば、前認定の背景事情、経緯および橋本らが配布した前記ビラによつてこうむる被害の程度など弁護人主張の諸事情を勘案しても、被告人丸尾らの行為は、社会的に相当と認められる程度を明らかに超え、法秩序全体の見地から可罰的違法性を有するといわなければならない。よつて、弁護人の前記主張は採用しない(なお、この理は、被告人丸尾らの判示第二の所為についても同様にあてはまる。)。

二  判示第三の事実(生野駅・南真弓公民館事件)について

(一)弁護人は、「被害者らが生野駅周辺で配布したビラは部落解放同盟やその活動を非難、中傷する内容のものであつて、これを配布するのは、部落差別を助長、拡大させるとともに解放同盟および被告人杉田らを含むその構成員の名誉などを侵害する不正な行為にあたり、しかも被害者らは、同駅からさらに他の場所に移動して同様のビラを配布しようとしていたのであるから、右侵害の急迫性は存続していたというべきであり、被告人杉田らが右侵害行為を防止するため被害者らに対し多少荒い言葉で抗議、説得し、あるいは話し合いを求めて公民館へ連行する際多少の有形力の行使があつたとしても、相当な手段、方法であるから、被告人杉田らの行為は正当防衛ないし糾弾権の正当な行使としての正当行為であつて違法性を阻却し、あるいは可罰的違法性を欠く。」旨主張する。

(二)関係各証拠によれば、被害者らが当時生野駅周辺で配布したのは、神戸地裁豊岡支部が橋本宅の包囲に関し命じた仮処分決定や橋本の手記などを掲載した朝来郡民報など二種類のビラで、総じて橋本宅の監禁に抗議し、解放同盟の行動を不法、不当なものとして批判する内容のものであつたことが認められる。しかしながら、公の団体の行動に対する批判文書を配布することが、直ちに、その団体ないし構成員の名誉などを侵害する不正な行為というべきでないことは、たとえ文書の一部に激越な表現が見られたとしても、言論の自由や政治的活動の自由の保障の観点あるいは刑法二三〇条の二の規定の趣旨からして、当然である。とくに対立する団体間の紛争中に情宣活動として配布されるビラには、多少なりとも誇張された表現や激越な文言を用いて相手方団体を批判する内容を含むことがおうおうにしてあり、したがつてまたそのような内容を含んでいるからといつてビラを配布することが、その団体の社会的評価を直ちに下落させるものではない。本件においても、前記ビラの内容などに徴し、被害者らのビラ配布が被告人杉田らの名誉などに対する不正の侵害にあたるとまではいいがたい。

のみならず、被告人杉田らが右ビラ配布に対してとつた行為は、言葉で抗議、説得するにとどまらず、前判示のとおり、一〇余名に及ぶ被害者らに殴る、けるの暴行を加えるなどしてその抵抗を排し(これを多少の有形力の行使あるいはもみ合い状態とはいえない)、全員をマイクロバスに押しこめ、南真弓公民館まで連行した後も多衆の包囲と威圧で右公民館から脱出できない状態にしたうえ、さらに多数の被害者に同様の暴行を加えたというものであつて、真にやむをえざるに出でた行為とは到底いいがたく、糾弾のためとしても社会的に相当と認められる程度を明らかに超えた手段、方法というべきである。これにより、判示のとおり、二〇名の被害者が警察官の救助が功を奏するまでの間、長時間にわたり行動の自由を侵害され、かつ一〇余名に及ぶ被害者が加療約二週間ないし五日間を要する判示各傷害を負つたものであつて、法益侵害の程度もまた軽微とはいいがたい。

(三)してみると、被告人杉田らの行為は、正当防衛にあたらず、また糾弾権の行使としての正当行為により違法性を阻却するに由なく、さらに、可罰的違法性を具備することも明らかであつて、弁護人の前記主張は採用しえない。

なお、弁護人は、被告人杉田らは糾弾権の行使として一時的に相手方の自由を拘束し、また有形力の行使をすることは許されると考えており、こう考えることは非難されるべきではないから、同被告人らには違法性の意識の可能性がない、旨をも主張するが、前判示のとおりの手段、方法をもつてなされ、かつ軽微とはいいがたい結果をともなう、本件のような自由の拘束および有形力の行使が法秩序に反することを被告人杉田らが意識する可能性は十分存するというべきである。このことは、たとえば被告人木戸口が、糾弾の際殴つたりけつたりするのは「暴力」にあたり許されない旨の認識を示していることからも窺えるところである。

三  判示第七の事実(八鹿高校事件)について

(一)判示第七の各犯行のうち、逮捕監禁、強要罪について、弁護人は、「同校教諭らに学校へ戻ることを促がす過程でスクラムをはずし、腕をとり、マイクロバスなどに乗せるなどの一定の有形力の行使があつたとしても、その程度は比較的軽微で、本件の経緯、教諭らの対応などの諸要素を考慮すれば、それらの有形力の行使には可罰的違法性がない、また、八鹿高校内に同校教諭らを糾弾のため長時間留めたことが仮に監禁に該るとしても、部落差別の実態、八鹿高校における同和教育の実情、本件の経緯、教諭らの対応およびこれに対する糾弾活動の動機、目的の正当性、手段方法などを総合的に検討すれば、同様に可罰的違法性がない、さらに、自己批判書を作成させる過程で、ときに声を荒げ、机をたたくなどの行為があつたとしても、同様に可罰的違法性はなく、逮捕監禁、強要罪は成立しない。」旨主張する。そして、右主張の前提である本件の経緯、教諭らの対応に関しては、つとに、「八鹿高校における解放研設置の動きは、差別を受けている被差別部落出身生徒の真摯な求めによるものであるにもかかわらず、部落解放同盟を敵視する基本的姿勢をとる同校教諭らは右生徒の真情を理解しようとせず、徹底的にその設置に反対し、解放研発足後もこれを認めていないという立場をかたくなにとり続けてその活動を一切無視し、解放研生徒の話し合つてほしいという願いをも拒否し、あまつさえ、教諭らのこの態度に抗議し話し合いを求めてハンガーストライキに入り生命の危険さえ生じた解放研生徒達をなんら顧みることなく、授業を行うべき教師としての義務すら放棄して本件当日直ちに集団下校したものであつて、糾弾の際も黙りこみ不誠実な態度に終始していた。一言でいえば、被害者である同校教諭らの差別的、党派的体質が本件を生んだ。」という点が強調されている。

(二)八鹿高校における解放研設置をめぐる紛争の経緯、同校教諭らの対応の概要は、「本件の経緯」の項で認定したとおりである。これによれば、本件の被害者である同校教諭らは、解放研の設置に対して一貫して消極的であり、解放研発足後も拒否的態度をくずさなかつたことが明らかである。そして、同校教諭らにそのような態度をとらせた最も大きな要因が、解放研は部落解放同盟の尖兵であり、その設置を認めることは同校における解放同盟の勢力の介入を許すことになるという理解であつたことは容易に推察しえるところである。自校の被差別部落出身生徒による解放研設置の要求などをこのような、いわば政治的観点からのみ理解することが教育者として果して適切であつたかは問題とされよう。ここに問題があるとすれば、同校教諭らの右の一貫した態度は、逆にいえば硬直した態度との批判を免れがたい。また、本件当日の集団下校は、激しい糾弾を予測しこれを未然に避けるためとはいえ、いかにも早急で思いきつた態度であり、現にハンガーストライキをしている生徒やその父兄の心情を含め同校全体の教育的見地への配慮を十分かつ慎重に行なつたうえのものであるかどうかについても大いに問題となろう。

被害者らの右の態度は、日頃部落差別に苦しんでいる被告人らおよび本件に加功した解放同盟員にとつては、差別的、党派的なものと見られる余地があり、したがつてまたこれらの者が被害者らに対し、激しい怒りを持ち、糾弾を必要とすると考えたのも無理からぬところがあるといえなくもない。しかし、本件糾弾の手段、方法は社会的に相当と認められる程度を明らかに超えており、また法益侵害の程度も重大であつて、法秩序全体の見地からすると、逮捕監禁罪、強要罪の可罰的違法性を阻却するとは到底いいがたい。

すなわち、本件の逮捕監禁罪、強要罪の手段、方法は、判示のとおり、立脇履物店前に座りこんだ四七名の八鹿高校教諭らに対し、白昼公道上で多数の者が殴る、けるなどの激しい暴行を加え、その手足を持つて引きずるなどした後トラックまたはマイクロバスに乗せ、あるいは両腕をとつて連行するなどしたもので(有形力の行使が、弁護人の主張のごときスクラムをはずす、腕をとるという程度でなかつたことは、前認定のとおりである。)、いわば公衆の面前で一方的に被害者らに暴力を振うとともにその自由を拘束したと評され、三〇〇メートル離れた八鹿高校第二体育館に連れこんだ後も同所や会議室、解放研部室などに包囲と威圧ないし看視でもつて監禁し、負傷のため入院の必要があると認められた者以外はきわめて長時間(被害者のうち、二三名はいわゆる総括糾弾会終了まで約一二時間三〇分)にわたつて同校から自由に脱出できない状態にしたうえ、その間も多数の者が言葉によるきびしい糾弾に加えて四一名の被害者に対してはさらに判示のとおり、第二体育館など各所において、殴る、ける、冷水をあびせるなどの大規模で執拗な暴行を加えて自己批判を迫つたというものであつて(有形力の行使が、弁護人主張のごとき机をたたくという程度でなかつたことは前認定のとおりである。)、糾弾のためとしても社会的に相当と認められる程度を明らかに超えている。このような手段、方法が真にやむをえないとは到底いいがたいことは明らかである。これにより多数の被害者が長時間にわたつて行動の自由を侵害され、またその意に反した文書の作成を余儀なくされるとともに、前記一連の暴行によつて四三名の多きにのぼる被害者が相当期間の加療(入院加療を含む)を要する傷害を負つたもの(最長の加療期間を要する者は、骨折をともなう傷害で当初診断の加療期間が二か月である)であつて、被害者らに与えた精神的、肉体的影響は甚大であり、法益侵害の程度も重大であるとの評価を免れがたい。

(三)要するに、本件各犯行の前判示具体的態様に徴すれば、前認定の本件の経緯、被害者らの対応上の問題点およびその他弁護人主張の諸事情を十分考慮しても、被告人丸尾らの本件行為は、法秩序全体の見地からして可罰的違法性を阻却しないと解される。よつて弁護人の前記主張は採用しえない(本件が“いきすぎた糾弾”であつたことは少なからぬ被告人が自認していることも参照されるべきである。)。

第三  無罪部分の判断

一  橋本宅包囲事件

(一)暴力行為等処罰ニ関スル法律違反の点について

1右公訴事実の要旨は、「被告人丸尾良昭、同尾崎龍、同安井義隆は、ほか多数の者と共謀のうえ、連日数十人ないし数百人を動員して右橋本方居宅を包囲し、同屋内の同人に対し、拡声器及び肉声で『橋本糾弾。』『橋本出て来い。』『お前が出てくるまで、一週間だろうが、一か月だろうが、一年だろうが、わしらは毎日来るぞ。』『お前がぶつ倒れるまで、わしらは糾弾しまくるぞ。』『死ぬまで糾弾してやる。』『お前を殺して部落が解放されるのだ。』などとこもごも怒号して同人の生命、身体及び自由等に対し害を加える旨告知して同人を畏怖させ、もつて多衆の威力を示し、かつ数人共同して同人を脅迫した。」というのである。

2関係各証拠によれば、前認定のとおり、被告人丸尾らは、橋本宅を包囲するなどしたうえ、橋本哲朗を非難する演説を繰り返し、「橋本哲朗出て来い。」「橋本糾弾。」などと激しくシュプレヒコールし、とりわけ、一〇月二一日午後七時過ぎころから、被告人尾﨑龍が、橋本宅裏側民家の前に駐車したマイクロバスの上で、マイクを用いて、ほぼ公訴事実記載のとおりの発言をしていたことが認められる。

3ところで、同被告人の右言辞とくに「死ぬまで糾弾してやる」とか「お前を殺して……」の部分は、言葉だけを抽象的にとりだせば、橋本哲朗の生命、身体、自由などに対する害悪の告知にあたると解する余地がないではないが、政治的に対立する団体間などで互いに相手を非難、中傷する場合において、ある程度激しい意見や誇張された言辞が投げつけられることはしばしば見受けられるところで、告知を受けた者も表現どおりに受け取らないのが常態であり、したがつてこれをもつてただちに人を畏怖させるに足りる害悪の告知とはいえない場合があると考えられる。同被告人の右言辞は、部落解放同盟の運動を批判し、これと対立する行動をとつてきた橋本哲朗を糾弾する際、同人に対して憤慨し、その姿勢を非難するに急なあまり、いわば突発的に発せられたもので同被告人の憤激の情を誇張し、集団行動にありがちな激しい表現となつたものと認められる。このような経緯、状況の中でこれを見れば、右言辞は、その内容の実現を示唆したもの(たとえば「橋本を殺す。」)とは考えられず、橋本をして不安、困惑の情を生じさせたことは間違いないにしても、真に畏怖させるに足りる害悪の告知と認めることには疑問がある(橋本証言によつても、脅迫されたという感じを受けたかどうか判然としない。)。

また、「橋本哲朗出て来い。」「橋本糾弾。」などとシュプレヒコールなどすること自体は、いまだ同人に対する具体的な害悪の告知に該らないことはいうまでもなく、ほかに、被告人らが暴力行為等処罰ニ関スル法律一条違反の罪を犯したことを認めるに足りる証拠はない。

よつて、この点については、結局、犯罪の証明がないことになるが、前記判示第二の一の監禁罪と科刑上一罪の関係にあるものとして起訴されたと認められるから、主文においてとくに無罪の言渡をしない。

(二)監禁罪の一部(一〇月二〇日ないし同月二二日午後五時三〇分ころまで)について

1前記認定した事実によつて、一〇月二〇日ないし同月二二日午後五時三〇分ころまでの間の橋本宅周辺の状況について検討すると、まず、同月二〇日、二一日の両日はいずれも午後七時前ころから被告人丸尾ら三名を含む約三五〇名の同盟員らが集会を開き、前記橋本方居宅に向けてデモ行進したうえ、同宅前付近において、同人に対し糾弾に応じるよう要求し、あるいは同人を非難、罵倒する演説、シュプレヒコールを繰り返したことが明らかである。しかし、橋本宅へのデモ行進については、事前に警察に届け出てこれが受理され、二〇日の参加人員が予想を上回わると、翌二一日にはその旨の変更届をしてこれも受理されていたものであり、右デモ行進自体はおおむねその届出の趣旨に沿つて行われたものということができるうえ、場所も橋本が日常生活を営んでいる同人方居宅であり、これに対する糾弾の時間も約三〇分ないし一時間程度の比較的短時間であることなどを考えると、被告人丸尾らの前記所為をもつて人の身体、行動の自由に対する侵害であると断ずるには疑いが残るといわざるを得ない。

前記期間のうち、右に検討したデモ行進、集会の時間以外の時間については、二一日昼間、橋本宅前付近道路のガードレールに部落解放同盟の荊冠旗などがくくりつけられたことおよび二二日の昼間、数名の同盟員らが橋本宅西側通路付近からシュプレヒコールなどしていることが散発的に現認されている程度であつて、当時橋本宅付近の警備にあたつていた警察官井上清の検察官に対する供述調書(昭和五〇年一月三一日付)、同西村貞夫作成の現認、録音状況報告書(昭和四九年一一月一四日付、検甲一五号)によつても、同盟員らにおいて、橋本宅を包囲するとか同人に対しそれ以上の集団的な威圧を加えるとか、橋本哲朗が同宅から出てくれば直ちに捕えて糾弾するだけの具体的な態勢のもとに監視を継続していたことを認めるに足りる状況は見出すことができない。また、証人橋本哲朗自身も、この間同人が同盟員らによつて監禁された状態にあつたことを認めるに足りる事実について具体的な証言はしておらず、かえつて、同人が同月二一日昼間、同人宅の敷地を越えて外部に踏み出したことがある旨供述していることからしても、この間継続的に監禁状態にあつたとすることには疑いを容れざるをえない。

2検察官は、被告人らが、橋本宅付近などに投光器、拡声器を設置するとともに同人東方約七〇メートルの空地に数張のテントを張つて見張員を常駐配置し、夜間は投光器を照射するなどの方法で昼夜監視の態勢をとつていたと主張する。

右主張は、これらテント、投光器などの設置が、同盟員らの待機と相まつて橋本を監視する態勢をなし、同人監禁の一手段であつたというものと解されるところ、関係各証拠によれば、一〇月二〇日、二一日の両日は、橋本宅付近には同宅東側の電柱に道路に向けて三〇〇ワットおよび五〇〇ワットの作業灯各一個が設置されていたことが認められるにすぎないうえ、前示のとおり、右両日の集会終了後は被告人尾﨑龍ら三名が右テントに宿泊したものの、同人らはすぐに眠つており、橋本の動静を監視するに足りる態勢にあつたとは認められない。また、関係各証拠によれば、一〇月二一日昼ころ、前記空地付近にテントが増設され、さらに同月二二日午後には橋本宅付近に作業灯が追加設置されたことが認められるが、同日夜まで、これらが監視の目的のために利用された状況は認められない。

そして、他に右の期間中橋本哲朗に対する監禁行為のあつたことの証明もないのであるから、右公訴事実中昭和四九年一〇月二〇日ないし同月二二日午後五時三〇分ころまでの間については、結局、犯罪の証明がないことになるが、右は、前記判示第二の一の監禁罪と一罪の関係にあるものとして起訴されたものであることが明らかであるから、主文においてとくに無罪の言渡をしない。

二  生野駅・南真弓公民館事件について

同事件の被告人木戸口に対しては、被害者大森、渡辺の傷害罪(同事件の起訴状別表6、13)についても公訴事実の一部とされているが、前判示のとおり、右両名の傷害の結果は同被告人が本件に加功する以前に生じたことが明らかであるから、公訴事実中この部分について同被告人は刑事責任を負わないと解される。

ただし、右無罪部分は一罪の一部(同被告人も暴行の限度では刑事責任を負う)であるから、主文においてとくに無罪の言渡をしない。

三  八鹿高校事件について

(一)被告人尾崎文雄

1昭和四九年一二月三一日付起訴状記載の公訴事実第一(判示第七の一の事実に対応)の関係で同被告人は被害者安積、芝地、野村、藤原、鉈橋、福田、早田、水垣、中川、篠原、田畑、井上に対する傷害罪(右起訴状別表番号14ないし17、19、30、32、42、44ないし47)についても公訴事実の一部とされているが、前判示のとおり、右一二名の傷害の結果は同被告人が本件に加功する以前に生じたことが明らかであるから右公訴事実中この部分について同被告人に刑事責任を負わせるのは相当でない。右一二名に対しては暴行の限度で刑事責任を負うと解すべきである。ただし、右無罪部分は一罪の一部であるから、主文においてとくに無罪の言渡をしない。

2右起訴状記載の公訴事実第二(その要旨は判示第七の三の事実と同一である。)についても、同被告人が加功前に発生かつ終了したものであり、もとより、これにつき同被告人が事前に共謀したと認むべき証拠はないから同被告人は刑事責任を負わないと解される。よつてこの部分については刑事訴訟法三三六条により、主文のとおり無罪の言渡をする。

(二)被告人植村勝美

昭和五〇年四月三〇日付起訴状によると、同被告人は第一現場における片山正敏など四三名に対する逮捕および暴行についても公訴事実の一部とされているが、第一現場の犯行については承継的共同正犯が成立せず(もとより、事前の共謀を認むべき証拠はない。)、刑事責任を負わせることができないことは前判示のとおりであるから、公訴事実中これらの部分および第一現場における暴行から生じた傷害の結果(その疑いがあるものを含む)については、同被告人は無罪であるが、右無罪部分は一罪の一部であるから、主文においてとくに無罪の言渡をしない。(なお、同被告人に刑事責任を負わせることができない傷害の結果は、右起訴状別表番号14の被害者安積に対する傷害のほかは別表(四)に記載されている傷害で別表(六)の対応する被害者の傷害欄に記載されていないものである。)

(法令の適用)

被告人丸尾良昭、同尾﨑龍の判示第一、第二、被告人安井義隆の判示第一、第二の一、被告人安井千明の判示第一、第二の二の各所為、被告人杉田邦夫、同木戸口英樹の判示第三の所為中各逮捕監禁の点、被告人丸尾良昭、同石田常夫、同尾﨑龍、同尾崎文雄、同安井千明、同安井辰雄、同安井義隆、同坂本逸雄(以下「被告人丸尾など八名」と略記する。)の判示第七の一の所為中各逮捕監禁の点(ただし、被告人尾崎文雄を除いたその余の被告人らの別表(五)番号32、42、44ないし47の被害者に対するものを除く。)および被告人植村勝美の判示第七の二の所為中各監禁の点はいずれも刑法二二〇条一項、六〇条に該当し、被告人丸尾など八名(ただし、被告人尾崎文雄を除く。)の判示第七の一の所為中各逮捕監禁致傷の点(上記番号の被害者に対するもの。同人らは、別表(四)で明らかなとおり、第一現場においてのみ暴行を加えられて受傷しており、右暴行は逮捕の手段と認められるから、同人らに対しては、結局逮捕監禁致傷の一罪が成立する。)はいずれも同法二二一条(二二〇条一項)、六〇条に該当するから、同法二二〇条一項の刑と同法二〇四条の刑とを同法一〇条により比較し、重い傷害罪につき定めた懲役刑(ただし、短期は監禁罪の刑のそれによる。)に従がい、被告人杉田邦夫、同木戸口英樹の判示第三の所為中各傷害の点、被告人大垣政次の判示第四、被告人尾崎文雄の判示第五の各所為、被告人丸尾など八名の判示第七の一の所為中各傷害の点(ただし、別表(四)の上記番号の被害者に対するものを除く。)、判示第七の三(ただし、被告人尾崎文雄を除く。)の所為および被告人植村勝美の判示第七の所為中各傷害の点はいずれも同法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号、刑法六〇条に、被告人木戸口英樹の判示第三の所為中暴行の点(別表(二)番号6、13の被害者に対するもの。)は同法二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項一号、刑法六〇条、被告人坂本逸雄、同坂本修一の判示第六の各所為はいずれも暴力行為等処罰ニ関スル法律一条(刑法二〇八条)、罰金等臨時措置法三条一項二号、刑法六〇条、被告人丸尾ら八名の判示第七の一、被告人植村勝美の判示第七の二の各所為中各強要の点はいずれも刑法二二三条一項、六〇条にそれぞれ該当するところ、判示第一、第二の各所為(ただし、判示第二については被告人安井義隆の所為を除く。)および判示第三の所為中逮捕監禁の点はそれぞれ一個の行為で数個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪としていずれも犯情の最も重い、判示第一、第二については橋本哲朗に対する監禁罪、判示第三については西村英弥に対する逮捕監禁罪の刑で処断することとし、判示第七の一の所為中逮捕監禁および逮捕監禁致傷の点、判示第七の二の監禁の点もそれぞれ一個の行為で数個の罪名に触れる場合であり、判示第七の一、二の各所為中各強要と各傷害の関係も同様の場合にあたると解され、さらに、右の逮捕監禁(判示第七の二については監禁)と各強要ないし各傷害との間にはそれぞれ手段結果の関係があるので(たとえば、別表(四)(五)番号13の被害者のように、逮捕監禁と傷害の二罪が成立するものについても、右の傷害は強要の手段としてなされた暴行を含む一連の暴行から生じたものと認められるから、強要罪ないし同罪の未遂が起訴されていなくても、罪数上は、強要罪が起訴された被害者に対する罪数との均衡も考慮して、牽連犯として処理するのが妥当である。)、同法五四条一項前段、後段、一〇条により結局以上を一罪として刑期および犯情の最も重い、判示第七の一(ただし、被告人尾崎文雄を除く。)については井上堅に対する逮捕監禁致傷罪の刑、被告人尾崎文雄の判示第七の一および判示第七の二についてはいずれも片山正敏に対する傷害罪につき定めた懲役刑(ただし、短期は逮捕監禁ないし監禁罪の刑のそれによる。)で各処断することとし、判示第三のうち傷害、暴行の各罪、判示第四ないし第六および判示第七の三の罪の刑については、所定刑中いずれも懲役刑を選択し、被告人丸尾良昭、同尾﨑龍、同安井義隆および同安井千明の判示第一、第二、第七の一および第七の三の罪、被告人杉田邦夫、同木戸口英樹の判示第三の逮捕監禁と各傷害ないし暴行(被告人木戸口英樹については、前記のとおり一部は暴行)の罪、被告人大垣政次の判示第四の各罪、被告人尾崎文雄の判示第五の各罪および判示第七の一の罪、被告人坂本逸雄の判示第六の各罪、判示第七の一および第七の三の罪、被告人坂本修一の判示第六の各罪、被告人石田常夫、同安井辰雄の判示第七の一および第七の三の罪はいずれも同法四五条前段の併合罪の関係にあるから、それぞれ同法四七条本文、一〇条により、被告人丸尾良昭、同尾﨑龍、同安井義隆、同安井千明、同尾崎文雄、同坂本逸雄、同石田常夫および被告人安井辰雄については最も重い判示第七の一の罪、被告人杉田邦夫、同木戸口英樹については刑期および犯情の最も重い西村英弥に対する傷害罪、被告人大垣政次については犯情の重い河合博に対する傷害罪、被告人坂本修一については犯情の最も重い判示第六の一の各罪の刑に法定の加重をし(ただし、被告人杉田邦夫、同木戸口英樹については、短期は逮捕監禁罪の刑のそれによる。)、その各刑期の範囲内で被告人らを主文一項掲記の刑に処し、諸般の情状を考慮して、いずれも同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から主文二項掲記の期間右各刑の執行を猶予し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項但書により被告人らに負担させないこととする。

よつて、主文のとおり判決する。

(荒石利雄 石井一正 笹野明義)

別表 (一)

番号

氏名

年齢

(当時)

1

橋本哲朗

三九

2

西野清

二四

3

上垣賢司

二二

4

西岡二郎

四三

5

佐藤昌之

四八

6

奥村忠俊

二六

7

梅田平

二七

8

太垣昇

三八

9

松田一戯

二七

10

尾下秀敏

四七

別表 (二)

番号

氏名

(年齢、当時)

暴行の態様

受傷の状況

生野駅ホーム

南真弓公民館

傷害

程度(約)

1

久後生歩

(二〇)

ハンドマイクで手の甲を殴り、腹をける。

胸、頭など体中をふんだり、けつたりする。ハンドマイクを耳元にあててどなる。

左胸部打撲

頭部打撲

二週間

2

谷脇和仁

(二〇)

背中をけり、頭、顔、を殴る。髪の毛を引張つて引きずり倒す。ハンドマイクを耳元にあててどなる。

背中をけり、顔を殴る。髪の毛を引張る。タバコの火を手に押しつける。

顔面、腰部、左大腿打撲挫傷。左手背熱傷二度

一〇日間

3

浜田武志

(二〇)

首、尻をけり、腕を殴る。

肩、顔を殴る。首に膝をあてて頭を後に引張る。

頸部、顔面、腰部打撲傷

4

西村英弥

(二三)

腕を殴り、背中をける。髪の毛を引張る。ハンドマイクを耳元にあててどなる。

背中、顔、胸をける。

口唇切創、左前膊打撲傷

一週間

5

内田尚之

(二〇)

顔を殴り、背中をける。

顔面、腰部打撲傷

6

大森篤

(二〇)

ハンドマイクで手首を殴る。髪の毛などを持つてホーム上に頭を打ちつける。左大腿などをける。

髪の毛を引張る。腰をける。

頭部打撲傷(皮下血腫)、左大腿打撲傷

一週間

7

小石原郁夫

(二〇)

背中、頭、腹をける。腕を棒状のものでたたく。

背中、胸をける。頭を持つて隣にいた者の頭にぶつつける。

左肘部、左腰部打撲挫傷

8

当具伸一

(二〇)

髪の毛を引張る。顔を殴り、腰をける。ハンドマイクを耳元にあててどなる。

髪の手を引張る。腰をける。

顔面、右上腕、左腰部打撲傷、左手関節捻挫

9

山本篤

(二三)

肩、手、背中、顔をける。

背中をける。ハンドマイクを耳元にあててどなる。

右側頭打撲傷顔面挫傷

10

白髭寿一

(一八)

顔、背中をける。

背中、腹をけり、顔を殴る。

顔面、頸部右上腕挫傷、上口唇挫創

11

秋月雅己

(二一)

耳を引張る。腕を棒状のものでたたき、大腿部をける。

肘、顔をける。

右肘部打撲傷、下口唇、口腔内挫創

五日間

12

山内寛

(一九)

腕を棒状のものでたたく。

髪の毛を引張つて頭を隣にいた者の頭にぶつつける。ハンドマイクを耳元にあててどなる。

頭部、左背部打撲傷

13

渡辺昌男

(二一)

背中、腰をける。髪の毛を引張る。

背中、腰をける。頭を持つて隣にいた者の頭にぶつつける。

左肩胛部、右腰部挫傷

14

安田俊文

(一九)

15

迫田昭雄

(二一)

16

多田龍三

(二二)

17

越智和博

(二二)

18

福恵昌彦

(二〇)

19

今城健育

(一九)

20

長谷部正則

(一九)

別表 (三)

番号

氏名

年齢

(当時)

受傷の状況

傷害

程度(約)

1

撰梅忠雄

三五

右大腿部内外側打撲症

右膝部打撲症

左大腿内側打撲症

三週間

2

植木敏久

二六

前胸部挫傷

左口頬粘膜挫創

一〇日間

3

清水馨

三二

下口唇打撲挫創

一週間

4

岡野次郎

二七

下口唇裂創

右下眼瞼皮下出血

左頬部挫傷

一週間

別表 (四)

番号

氏名

(年齢、当時)

暴行の態様

受傷の状況

第一現場

第二現場

傷害

程度(約)

1

片山正敏

(四四)

頭、腕を殴り、肩、腰をける。頭をふむ。地面にたたきつける。

(第二体育館)

腹などをふみ、肩、腰をける。髪を引張る。バケツで水をかける。

(解放研部室)

髪を持つて壁に頭を打ちつける。火のついたタバコを顔に押しつける。顔、みぞおちを殴る。

(会議室)

指を逆におりまげる。鉄棒で脇腹をこづき、背中をける。

頭部外傷

顔面打撲

前胸部打撲

左第八、九肋骨々折

左第二、三、四腰椎横突起骨折

腹部外傷

背部打撲

二か月間

2

岡村清雄

(三二)

ハンドマイクを耳元にあててどなる。大腿をけり、顔を殴る。

(第二体育館)

顔を殴り、腹、胸をける。バケツで水をかける。

(解放研部室)

顔を殴り、足をける。南京錠で顔をつく。指を逆におりまげる。

顔面打撲

腹部打撲

左側胸部打撲

二週間

3

藤村和弘

(三〇)

顔、頭を殴り、腰、首、腕、胸、足をける。

(第二体育館)

髪を引張る。腰、大腿をけり、頭を殴る。ハンドマイクを耳元にあててどなる。

バケツで水をかける。

(解放研部室)

腰、足をける。牛乳びんで頭を殴る。指を逆におりまげる。

左頭部打撲兼挫創、項部打撲、腰部打撲、右前胸部打撲

二週間

4

長坂護城

(三五)

腕、首、足をけり、肩にとびかかる。

(第二体育館)

払い腰で投げ倒す。腰、背中をける。バケツで水をかける。

(解放研部室)

頭、首を殴り、背中、腰をける。髪を引張る。足の甲をふみつける。

(会議室)

顔など体中をける。ハンドマイクを耳元にあててどなる。髪を引張る。

右胸部打撲、右上腹部打撲、両腰部打撲、項部打撲、左足背打撲、背部打撲、右手背擦過創

二週間

5

稲津健輔

(三七)

頭を殴り、腕、足、背中などをける。

(第二体育館)

顔、頭を殴り、腰などをける。耳を引張る。バケツで水をかける。

(解放研部室)

髪を持つて机に額を打ちつける。手でのどを押す。南京錠であごをかちあげる。牛乳びんで頭を殴り足の甲をふみつける。火のついたタバコを頬などに押しつける。

(会議室)

髪を持つて机に額を打ちつける。胸をけり、顔を殴る。

顔面打撲

両側胸部打撲、両下肢両足打撲

背部打撲

右第一趾皮膚剥離創

右顔面第二度熱傷

二週間

6

橘健

(五一)

腰、背中をける。

(第二体育館)

背中、脇腹、顔、尻をける。バケツで水をかける。

(会議室)

背中をけり、頭をこづく。髪を引張る。

顔面打撲

左助骨部打撲、左臀部打撲

一〇日間

7

米田稔

(三四)

腰、足をけり、頭を押えつける。

(第二体育館)

頭を上下させ、足、腰をける。バケツで水をかける。

(会議室)

髪を引張る。顔を殴り、顔、足をける。水や牛乳をあびせる。鉛筆を指の間にはさんでしめつける。

顔面、右下腿打撲

一〇日間

8

山田宗之

(五一)

のど、顔など体中をふみつける。頭などをける。

(第二体育館)

腰などをけり、大腿をふみつける。バケツで水をかける。バケツを頭にかぶせてたたく。

(会議室)

髪を引張る。ハンドマイクを耳元にあててどなる。首を押えつけ顔を殴る

全身挫傷

一〇日間

9

吉田一孝

(四一)

肩、腕をふみ、額、尻などをける。指を逆におりまげる。

(第二体育館)

後から首をこづく。バケツで水をかける。ハンドマイクを耳元にあててどなる。

(会議室)

背中、肩をこづく。

前額部、右臀部打撲傷、頸部挫傷

一〇日間

10

木俣進

(二六)

頭、顔を殴り、頭、背中、足、腰などをける。髪を引張る。

(第二体育館)

髪を引張る。背中、腰をけり、顔を殴る。バケツで水をかける。足払いをかけて倒し、頭、背中、腰などをける。

(会議室)

顔、頭を殴る。鉛筆を指の間にさはんでしめつける。髪を引張る。

(解放研部室)

髪を引張り、頭を殴る。

頭部、顔面、腰部打撲

一〇日間

11

小林千尋

(二六)

頭を殴り、腕、足、腰などをける。

(第二体育館)

髪を持つて板壁に頭を打ちつける。バケツで水をかける。顔、頭を殴り、頭、腹などをける。

(解放研部室)

髪を引張る。頭を殴り、足をける。

腹部外傷

一〇日間

12

村本武彦

(三八)

肩、右目をける。

(第二体育館)

背中、腰、足をける。バケツで水をかける。頬をつめでひねる。棒状の物で背中をつく。

(会議室)

頭を殴る。

全身打撲症

一〇日間

13

阪口

(旧姓北野)佐知子)

(二四)

髪を引張り、左目を殴る。

(第二体育館)

髪を持つて板壁に頭を打ちつける。足をけり、手を殴る。バケツで水をかける。

(会議室)

髪を引張る。背中、足、腕、頭などを殴り、ける。

(解放研部室)

頭、手足、肩を殴りける。顔を殴る。

左眼部打撲症

腰部打撲症

一〇日間

14

安積利治

(四二)

頭をける。

(第二体育館)

背中をけり、頭を殴る。耳を引張る。バケツで水をかける。

(解放研部室)

頬を肘でつきあげ、頭をこづく。

(会議室)

頭を殴り、首をねじまげ、足をけり、背中をつく。

頭部打撲兼挫創

一週間

15

芝地正義

(二九)

顔、頭を殴り、腕をける。

(第二体育館)

腰をける。

ヤカンで水をかける。

頭部打撲

一週間

16

野村八郎

(四六)

頭をこづき、脇腹、腰をける。

(第二体育館)

胸倉をつかみゆする。バケツで水をかける。

腰部打撲

左肋骨打撲

一週間

17

藤原等

(四二)

額、手、腰、尻をけり、つきとばす。胸を膝げりし、殴る。顔をふみつける。

(第二体育館)

髪を引張る。バケツで水をかける。膝をふみつける。

右肋骨打撲

一週間

18

高野敢

(二九)

首筋などを引張り、体を殴り、ける。

(第二体育館)

腰、腹をけり、顔を殴る。

(会議室)

髪を引張る。顔を殴り、頬を指ではじく。手の甲であごをかちあげる。

(解放研部室)

髪を引張る。頭をこづく。

頸椎捻挫傷

腰部打撲傷

一週間

19

鉈橋真理子

(二〇)

髪をつかみふりまわす。右側胸をけるなど。

(第二体育館)

髪、耳を引張る。

ヤカンで水をかける。

右側胸部打撲傷

一週間

20

木村次雄

(三四)

口、背中、足をける。

(第二体育館)

髪を引張る。

(会議室)

髪を引張る。

21

日下廉二郎

(五四)

頭を殴る。

(会議室)

顔を殴る。

22

前川貫治

(二六)

髪を引張る。

背中、脇腹をけり、肩を殴る。

(第二体育館)

額、背中をける。髪を引張る。

(会議室)

顔を殴り、首をしめる。

23

栂井逸郎

(三一)

髪を引張る。腰をけり、顔を殴る。

(第二体育館)

顔、脇腹、腰などを殴り、ける。

24

宮谷勝史

(三四)

腰、胸、足をける。

(第二体育館)

頭を殴り、背中、腰をける。

(会議室)

額を殴り、首をしめる。髪を引張る。

腰椎左第二、三、四横突起骨折、頭部打撲

二か月間

25

田中暢

(四八)

肩、背中、頭、足などを殴り、ける。

(第二体育館)

耳を殴り、放り投げる。バケツで水をかける。腰、尻をける。

(会議室)

頭を殴る。髪を引張る。

頭部外傷

左臀部、左足関節部打撲傷

二週間

26

藤井千賀子

(二九)

髪を引張る。頭、顔を殴り、尻、背中、足をける。

(第二体育館)

髪を引張る。板壁に頭を打ちつける。胸をこづき、顔を殴る。バケツで水をかける。

顔面打撲

後頭部打撲

両臀部打撲

二週間

27

土野浩二

(三二)

足をけり、胸倉をつかんでふりまわす。

(第二体育館)

頭を殴り、ける。耳を引張る。腹、背中、尻などをける。バケツで水をかける。

(解放研部室)

頭、顔を殴る。火のついたタバコを額やえり首に押しつける。

頭部外傷

前額部打撲

腰部打撲

左上腹部打撲、項部第二度熟傷

二週間

28

山内千代子

(五九)

右手の甲をベルトでたたく。大腿をける。

(第二体育館)

髪を引張る。腰、膝頭をける。バケツで水をかける

左前胸部、左大腿部、右手背、左膝部打撲症、左第三腰椎横突起骨折

一か月間

29

張本恭吾

(五三)

大腿をけり、顔を殴る。

(第二体育館)

尻、腰、背中をけり、頭を殴る。バケツで水をかける。ハンドマイクを耳元にあててどなる。

(解放研部室)

体を殴り、ける。タバコの火を額に押しつける。水をかける。

頭部打撲(第二型)、第一一肋骨々折、顔面打撲、両下腿打撲、左大腿打撲

四週間

30

福田晋

(六四)

右目を殴り、足をける。

(第二体育館)

頭を板壁に押しつける。

右上眼瞼挫創、右足関節部打撲

右脛骨内顆骨折

二か月間

31

太田垣哲郎

(三八)

額、足をけり、頭を殴る。

(第二体育館)

体中を殴る。バケツで水をかける。

(解放研部室)

体中を殴り、ける。火のついたタバコを耳の後に押しつける。指を逆におりまげる。腹を膝げりする。髪をつかんで頭を柱に打ちつけ、首すじをピンで突く。

頭部外傷(第二型)、胸部打撲、両上腕打撲、第一左腰椎横突起骨折

六週間

32

早田勝之

(二九)

ハンドマイクを耳元にあててどなる。頭を殴り、ける。

後頭部打撲

二週間

33

森田剛

(四〇)

足、胸、腰をける。頭をマイクロバスの窓ガラスに打ちつけ殴る。

(第二体育館)

髪を持つて板壁に頭を打ちつける。耳を引張る。顔を殴り、体をける。バケツで水をかける。

(解放研部室)

腹、腰、顔を殴る。

南京錠で頭を殴る。大腿をふみつける。

左側胸部打撲、頭部外傷、右大腿打撲

二週間

34

米村正徳

(三三)

頭、顔、腹などを殴り、背中、腕、足、胸などをける。

(第二体育館)

胸、額、腰をけり、手をふみつける。えり首をつかんで引きずりまわす。バケツで水をかける。

前額部打撲

左側胸部打撲、腰部打撲

二週間

35

雑賀和弘

(三六)

足、腰をける。

(第二体育館)

ハンドマイクを耳元にあててどなる。顔を殴る。バケツで水をかける。髪を引張る。腰をける。

上口唇挫創、左大腿打撲、腰部打撲、

顔面打撲

二週間

36

四方恒雄

(四〇)

左腕をつかんでふりまわす。体をふみ、ける。

(第二体育館)

両腕をねじり、胸、腹、頭をける。バケツで水をかける。

左肩甲骨々折、左背部打撲、頭部外傷、胸部打撲

六週間

37

高本清筰

(四一)

手、足、みぞおちをける。

(第二体育館)

頭を殴り、背中、脇腹、足をける。バケツで水をかける。

頭部打撲、

前胸部、背部打撲傷、第二腰椎横突起骨折、

左大腿打撲、両下腿打撲、顔面擦過傷、左第九肋骨々折

六週間

38

林總介

(三七)

背中をける。

(第二体育館)

バケツで水をかける。頭、脇腹を殴り、ける。背中を棒で突き、ける。

頭部打撲、

頸部打撲、

左下腿打撲、左側胸部打撲、右膝部擦過創

二週間

39

内田誠

(三二)

足、手をける。

(第二体育館)

バケツで水をかける。顔を殴る。髪を持つて板壁に頭を打ちつける。

(会議室)

顔を殴る。

頭部、右大腿打撲

一週間

40

平松美也子

(三七)

尻をける。髪を持ち、頭を福本の膝に打ちつける。

(第二体育館)

髪を引張る。顔を殴り、頭を板壁などに打ちつける。バケツで水をかける。膝をふみつける。

頭部外傷(第二型)、両側胸部、左前頸部、左大腿、左臀部打撲

二週間

41

高本強

(四一)

頭、胸をける。宙吊りにしておとす。

(第二体育館)

体中を殴り、ける。髪を引張る。体をかかえあげておとす。バケツで水をかける。

左前胸部打撲、両臀部打撲、右前頭部打撲、

腰椎第三、四左横突起骨折

六週間

42

水垣清之

(四二)

頭を殴り、背中、尻、腰、胸をける。

第二腰椎左横突起骨折、

右顔面、後頭部打撲

一か月間

43

福本慎三

(二四)

腹、胸、額などをける。

(第二体育館)

髪を持ち板壁に頭を打ちつける。腹、背中、頭をける。

頭部外傷(第二型)、右前額部挫創、

左下腿擦過創、左腰部打撲傷

一〇日間

44

中川道昭

(四九)

顔をける。

上口唇、歯齦部打撲兼挫創

一週間

45

篠原猷彦

(三四)

頭などをけり、首、肩などをふむ。

顔面打撲、

左側頭部打撲、右背部打撲、腰部打撲、後頭部挫創

二週間

46

田畑英毅

(二九)

顔、手、胸などをけり、両腕をねじあげる。

上口唇部打撲、右前胸部、上腰部打撲、右腰、臀部打撲、

両手背打撲

二週間

47

井上堅

(三七)

胸をふみつける。腕、腰、背中、足、頭をけり、顔を殴る。

背中を地面に打ちつける。

前額部、両顔面打撲、

胸部打撲、

腰部打撲、

左第二腰椎横突起骨折

六週間

別表 (五)

番号

氏名

(年齢、当時)

逮捕 ・監禁の状況

自己批判書の作成

逮捕の状況

監禁場所

監禁時間(約)

1

片山正敏

(四四)

両足を持つて引きずるなどした後トラックに乗せる。

第二体育館、解放研部室、会議室、第一体育館

一二時間三〇分

作成

2

岡村清雄

(三二)

両腕をとつて徒歩で連行する。

第二体育館、解放研部室、休養室、第一体育館

3

藤村和弘

(三〇)

両腕をとるなどして連行した後トラックに乗せる。

第二体育館、解放研部室、第一体育館

4

長坂護城

(三五)

手足を持つて引きずるなどした後トラックに乗せる。

第二体育館、解放研部室、会議室、休養室、第一体育館

5

稲津健輔

(三七)

両手、両足を持つて宙吊りにして運び、さらにひきずるなどした後トラックに乗せる。

6

橘謙

(五一)

胴、頭、足を持つて連行する。

第二体育館、会議室、解放研部室、第一体育館

7

米田稔

(三四)

後向に引張つて連行するなどした後マイクロバスに乗せる。

第二体育館、会議室、第一体育館

8

山田宗之

(五一)

足を持つて背中を地面につけたまま引きずるなどして連行する。

第二体育館、会議室、解放研部室、休養室、第一体育館

9

吉田一孝

(四一)

両脇をかかえて連行した後トラックに乗せる。

第二体育館、会議室、休養室、第一体育館

10

木俣進

(二六)

右手をねじ上げ、ベルトを持つて連行した後マイクロバスに乗せる。

第二体育館、会議室、休養室、解放研部室、第一体育館

11

小林千尋

(〃)

腕をとつて徒歩で連行する。

第二体育館、解放研部室、休養室、第一体育館

12

村本武彦

(三八)

両肩を持ち、後から押すなどした後マイクロバスに乗せる。

第二体育館、会議室、休養室、第一体育館

13

阪口

(旧姓北野)佐知子

(二四)

引きずつて連行した後マイクバスに乗せる。

第二体育館、会議室、解放研部室、第一体育館

14

安積利治

(四二)

腕をとつて引張つた後マイクロバスに乗せる。

第二体育館、解放研部室、会議室、第一体育館

三時間三〇分

作成

15

芝地正義

(二九)

両腕をとつて連行した後マイクロバスに乗せる。

第二体育館、会議室、休養室、第一体育館

16

野村八郎

(四六)

両腕をとつて徒歩で連行する。

17

藤原等

(四二)

両腕をとるなどして徒歩で連行する。

第二体育館、解放研部室、会議室、休養室、第一体育館

18

高野敢

(二九)

両腕をとり、ベルトを持つて徒歩で連行する。

第二体育館、会議室、解放研部室、休養室、第一体育館

19

鉈橋真理子

(二〇)

両手両足を持つて宙吊りにして運んだ後マイクロバスに乗せる。

第二体育館、会議室、休養室、第一体育館

20

木村次雄

(三四)

両腕をとるなどして徒歩で連行する。

第二体育館、会議室、解放研部室、休養室、第一体育館

21

日下廉二郎

(五四)

腕を引張り、後から押すなどして徒歩で連行する。

22

前川貫治

(二六)

両手両足を持つて宙吊りにして連び、さらに両腕をとつて徒歩で連行する。

第二体育館、会議室、休養室、第一体育館

23

栂井逸郎

(三一)

右手をねじ上げ、徒歩で連行する。

第二体育館、会議室、解放研部室、休養室、第一体育館

24

宮谷勝史

(三四)

両脇をかかえて徒歩で連行する。

第二体育館、会議室、休養室

一〇時間三〇分

25

田中暢

(四八)

引張つて徒歩で連行する。

第二体育館、会議室、応接室

九時間三〇分

26

藤井千賀子

(二九)

腕をとるなどして徒歩で連行する。

27

土野浩二

(三二)

手足をつかんで引張つた後マイクロバスに乗せる。

第二体育館、解放研部室、休養室

八時間三〇分

28

山内千代子

(五九)

両腕をとり、後から押して徒歩で連行する。

第二体育館、会議室、休養室

七時間

作成

29

張本恭吾

(五三)

押すなどして連行した後トラックに乗せる。

第二体育館、解放研部室、休養室

30

福田晋

(六四)

引張つて徒歩で連行する。

第二体育館、会議室、休養室

六時間三〇分

作成

31

太田垣哲郎

(三八)

両手両足を持つて宙吊りにして運んだ後マイクロバスに乗せる。

第二体育館、解放研部室

32

早田勝之

(二九)

両腕をとつて徒歩で連行する。

第二体育館、会議室、応接室

33

森田剛

(四〇)

両脇をかかえて連行した後マイクロバスに乗せる。

第二体育館、解放研部室、応接室

34

米村正徳

(三三)

第二体育館、応接室

35

雑賀和弘

(三六)

両腕をとるなどして徒歩で連行する。

第二体育館、会議室、応接室

36

四方恒男

(四〇)

両腕をとつて徒歩で連行する。

第二体育館、応接室

37

高本清筰

(四一)

手足を持つて引きずるなどした後マイクロバスに乗せる。

第二体育館、会議室、応接室

38

林總介

(三七)

両脇をかかえて徒歩で連行する。

第二体育館、応接室

39

内田誠

(三二)

後向に引張るなどして連行した後トラックに乗せる。

第二体育館、会議室、休養室

四時間三〇分

作成

40

平松美也子

(三七)

両脇をかかえて引きずつた後マイクロバスに乗せる。

第二体育館、応接室

六時間三〇分

41

高本強

(四一)

両足、両脇を持つて宙吊りにして運んだ後マイクロバスに乗せる。

第二体育館、解放研部室、休養室

四時間

42

水垣清之

(四二)

両腕をとつて連行した後マイクロバスに乗せる。

第二体育館、会議室、休養室

四時間三〇分

43

福本慎三

(二四)

両手両足を持つて宙吊りにして運ぶなどした後マイクロバスに乗せる。

第二体育館

二時間三〇分

44

中川道昭

(四九)

左腕をとつて徒歩で連行する。

第二体育館、校長室

三〇分

45

篠原猷彦

(三四)

両腕をとるなどして徒歩で連行する。

46

田畑英毅

(二九)

手足を持つて引きずつて連行する。

第二体育館

47

井上堅

(三七)

手足を持つて引きずつた後トラックに乗せる。

一時間三〇分

別表 (六)

番号

氏名

(年齢、当時)

受傷の状況

傷害

程度(約)

1

片山正敏

(四四)

顔面打撲、左第二、三、四腰椎横突起骨折、腹部外傷、背部打撲

二か月間

(以内)

2

岡村清雄

(三二)

顔面打撲、腹部打撲、左側胸部打撲

二週間

3

藤村和弘

(三〇)

左頭部打撲兼挫創、腰部打撲

(以内)

4

長坂護城

(三五)

右胸部打撲、右上腹部打撲両腰部打撲、項部打撲、左足背打撲、背部打撲

(〃)

5

稲津健輔

(三七)

顔面打撲、両側胸部打撲、両下肢両足打撲、右第一趾皮膚剥離創、右顔面第二度熱傷

二週間

(以内)

6

橘謙

(五一)

顔面打撲、左肋骨部打撲、左臀部打撲

一〇日間

7

米田稔

(三四)

顔面、右下腿打撲

8

山田宗之

(五一)

全身挫傷

9

吉田一孝

(四一)

頸部挫傷

(以内)

10

木俣進

(二六)

頭部、顔面、腰部打撲

11

小林千尋

(二六)

腹部外傷

一〇日間

12

村本武彦

(三八)

全身打撲傷

13

阪口

(旧姓北野)

佐知子

(二四)

腰部打撲傷

(以内)

14

高野敢

(二九)

頸椎捻挫傷、腰部打撲傷

一週間

15

宮谷勝史

(三四)

頭部打撲

二か月間

(以内)

16

田中暢

(四八)

頭部外傷、左臀部打撲傷

二週間

(〃)

17

藤井千賀子

(二九)

顔面打撲

(〃)

18

土野浩二

(三二)

頭部外傷、前額部打撲、腰部打撲、左上腹部打撲、項部第二度熱傷

二週間

19

山内千賀子

(五九)

左膝部打撲傷、左第三腰椎横突起骨折

一か月間

(以内)

20

張本恭吾

(五三)

頭部打撲(第二型)、第一一肋骨々折

四週間

(〃)

21

太田垣哲郎

(三八)

頭部外傷(第二型)、胸部打撲、両上腕打撲、第一左腰椎横突起骨折

六週間

22

森田剛

(四〇)

頭部外傷、右大腿打撲

二週間

(以内)

23

米村正徳

(三三)

前額部打撲、左側胸部打撲、腰部打撲

二週間

24

雑賀和弘

(三六)

上口唇挫創、腰部打撲、顔面打撲

二週間

(以内)

25

四方恒男

(四〇)

左肩甲骨々折、頭部外傷、胸部打撲

六週間

(〃)

26

高本清筰

(四一)

頭部打撲、前胸部、背部打撲傷、第二腰椎横突起骨折、左第九肋骨々折

(〃)

27

林總介

(三七)

頭部打撲、頸部打撲、左側胸部打撲

二週間

(〃)

28

平松美也子

(三七)

左大腿部打撲

二週間

(以内)

29

高本強

(四一)

腰椎第三、四左横突起骨折

六週間

(以内)

30

福本慎三

(二四)

頭部外傷(第二型)、左腰部打撲傷

一〇日間

(〃)

別表 (七)

氏名

(年齢、当時)

暴行の態様

受傷の状況

傷害

程度(約)

森垣壽弘

(三三)

肘、背中、顔、頭などをける。

頭部打撲、鼻部打撲兼挫創、鼻出血、鼻骨々折、左肘部、左背部打撲

四週間

中尾滋男

(三四)

顔をける。

顔面打撲兼擦過創、鼻骨々折、鼻出血

藤原利一

(四六)

胸、腹をける。

両側胸部打撲傷

一〇日間

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